—— いつ頃から絵に目覚めたのですか。 母方が芸術に長けている家系で、祖父母も母も水彩画を嗜たしなんでいたという影響があったのでしょうか。文字を覚える前から、白墨で道路に絵を描いていたような子でした。とにかく絵が大好きで、1日中何時間も夢中になって描いていた記憶があります。成蹊学園の中学に進んでから美術部に入り、母に連れていってもらった上野美術館での「ゴッホ展」で、アルルの夜を描いた『夜のカフェ』という作品の前に立った時の衝撃は今でも鮮明に覚えています。ゴッホの心が込められた繊細な色使いに圧倒された私は、30分間もその絵の前から離れられず立ちすくんでしまいました。この時です、「将来、油絵画家になろう!」と思ったのは̶̶̶。高校に入学して、その道に進む意志が益々確かなものになり、二紀会理事を務めていらっしゃった成井弘先生に油絵を、ヨーロッパやアメリカで活躍されていた水墨家の大家、内山雨海先生に水彩画を師事しました。 ——絵の勉強をヨーロッパではなく、アメリカで志された理由は何だったのでしょうか。 その頃の日本ではヨーロッパの画家の絵を鑑賞する機会は得られましたが、アメリカ絵画はなかなか無く、大学を卒業する頃から「自分の目で実際にアメリカの絵が見たい」と思う心が強くなる一方でした。父にその思いを伝えると仰天されました。その頃の女性は社会で身を立てるというより、結婚して子育てをして…という時代でしたから。それでも何とか説得して、父の友人が住んでいるサンフランシスコの近くという条件で許してもらったのですが、結果的には抽象画のコースしか無かったUCバークレーを選ばずに、あらゆる技法が学べるサンフランシスコの美術学校に2年間通うことになりました。 —— 自分の意志を通して、着々と画家としての人生を進められていたのですね。 私は、いつも世の中に助けられて生きてきたと思うんです。サンフランシスコで出会いがあり、結婚そして出産と続き、子育ての忙しさで一時は絵も描けないような生活をしていたある日、夫がクリスマスに新しい絵の道具をプレゼントしてくれたのです。この贈り物が再び私に絵を始める機縁を与えてくれました。電気技師だった夫の仕事の関係で1972年にサンディエゴに引っ越してきましたが、その頃は時代も良かったのでしょうか、個展を開くと幸運にもTVで紹介されて、そのお陰で絵が売れるようになりました。残念ながら、彼と生活を共にすることはなくなりましたが、自活するにあたって絵は自宅で描けますので、子供に淋しい思いをさせなくてもいい。自分に絵の世界があったことを心から感謝しています。そして、私に再び絵の機会を授けてくれた前夫にも。 ——ご自身の絵が何かに導かれているとお感じになったことは。 縁があって、私を絵の道に導いてくれたゴッホの故郷であるオランダに1982年から3年間暮らす機会を得ました。野外画家として既にそれなりの評価も頂いていましたが、オランダの長のどか閑な自然に触れれば触れるほど風景がうまく描けなくなってしまったのです。それで絵を描くことをしばらく止めて、空をじっと見上げていたある日、余りの空の美しさと綿菓子のようにふわふわした雲を見た時に心が洗われる思いがしました。その時に気が付いたのです。これまでは自然を単に目で追っていただけで、心で見ていなかったんだと。大事なのは心を自然の中に入れることだと。しかも強い心を。それに気が付いた途端、美しい分だけ厳しくもある自然から教わることの豊かさに驚かされました。絵の原点も描き方も自然が教えてくれる。そして、私は自然体でいることが一番ラクなのだと知り、自分がより自分らしく生きられるようになりました。 —— そして、再びサンディエゴに戻って来られたのですね。 オランダで交通事故に遭い、静養のために温暖な気候のスペインに行こうかとも考えましたが、子供たちのいるサンディエゴに戻る決心をしました。やはり、明るくて前向きでフロンティア精神に富んだアメリカという国が私の気性に合っているんです。私の人生を導いてくれた心から尊敬する両親が「明るく、楽しく、常に前進」を唱え、プラス志向で生きることを常に教えられていたので、アメリカで暮らすことに何の違和感も感じたことはありません。それどころか、アメリカ人からボランティア精神などを学ぶことも多く、サンディエゴで暮らせることに感謝しています。 —— ラメサの名誉市民として表彰されたとお伺いしましたが…。 私は多くのチャンスに恵まれ、多くの方々のお力を借りて生きて参りました。ラホヤ野外美術展の発起人であり、ラホヤ美術協会の会長を務めたこともあるジョン・フーパー氏との出会いもあって、未熟ながら野外画家としての名前を頂戴することもでき、1986年からバルボア・パークのスパニッシュ・ビレッジ内 Gallery 21 で毎年個展を開かせて頂いております。そんな1997年のある日、ラメサ市から講師の依頼が寄せられ、「私にはとても…」と一旦お断りをしたのですが、1クラスだけでもとの強い要請を受けて、結局アダルトスクールで教えることになりました。その決断の陰には、父に「そんな有り難い依頼をお断りしてはいけません。サンディエゴにお礼ができる折角のチャンスでしょ」と言われたこともありましてね̶̶̶。結果的には、教えていた4年間にクラスも3つに増えたのですが、教えるより生徒から学ぶことの方が多いというほど充実した日々でした。私の方が成長させて頂いたと思うのに、最後のクラスの日に背広を着た数人の紳士がクラスに入って来られて、突然に「鍵」を頂いたんです。訳が分からずキョトンとしているのは私だけ。生徒たちは皆この名誉市民のことを知っていて、ポットラック・パーティの準備までしてくれていたんです。本当に余りある名誉に感激してしまいました。 —— 絵を通して一番伝えたいこととは何でしょう。 私は写真のように事実を伝えるのではなく、私が絵に込めた物語、それも希望に満ちたメッセージを皆さんに感じてもらいたいと思いながら、常に作品を創作しています。自然は厳しい時もあれば、穏やかで美しい時もある。人生も同じ。悲しい時も辛い時もあるけれど、その先にはいつも希望がある。その希望をできるだけ多くの人と分かち合いたいと思っているんです。ですから、私が生きている限りは大好きな自然そして人と対話し、世界中の自然の中で絵を描き続けて、そのメッセージを伝えたいと思っています。イーゼル一つあれば何処でも私の思いを発信し続けることができる画家となって本当に幸せだと思います。自然の奥義を知れば知るほど、作品も私自身も未熟だと思うこの頃ですが、両親が私に授けてくれた前向きの精神、そして自然から学んだ 「Simple is Best !」 をモットーに、副作用の無い心のビタミン剤としての絵を描き続けていきたいと思っています。私を励まし応援してくれたアメリカそしてサンディエゴにいつも感謝しながら、そして恩返しをするためにも…。 (2002年9月1日号に掲載) |