Monday, 14 October 2024

ゆうゆうインタビュー ドナルド・H・エステス

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日本あるいは日本文化に興味を持ったのはいつ頃でしたか。

小学校2年生時の記憶が最も古いでしょうね。学校で外国について調べる宿題が出ましてね、私なりの思いがあって日本を選びました。でも、先生には私の選択を手放しで歓迎する様子など無かった。当時の日米は「戦闘状態に入れり」でしたからね。第二次大戦を挟んで、相当数のサンディエゴの日本人が近所に住んでいた。私は日本人コミュニティーと共に育ちました。一緒に学校へ通い、一緒に遊んで…。ある意味で、日本と日系アメリカ人の文化は常に私の人生の一部でした。それは今も変わらない。


——日本を学び始めたのはいつ頃でしたか。

サンディエゴ州立大学でアジア研究に取り組んだのが始まり。それまでこの分野はアメリカで全く見向きもされなかった。私は日本に関する物を収集したり、少年時代から続く彼らとの友情を温めながら、私自身の日系アメリカ人文化への興味を募らせていました。後に日系アメリカ市民連盟 (JACL) の会員となった私が日本史の専門知識があると知るや、日系アメリカ人向けの日本文化に関する記事執筆の依頼が JACL から舞い込むようになり、約25年間寄稿を続けましたね。


—— 戦前のSDに存在した日本人コミュニティーは、いつ頃から発展していったのでしょう。

1_2.jpg日本人移民がサンディエゴに到着したのは移民ブームの1880年代と記録にあるけれど、「第1号」の日本人名と年号は不明です (*注1)。日本人による初のビジネスは1887年にアズマガサキ・キクマツという人物が開業した「ゴバン」 (1065 5th Ave.) という店 (*注2)。1900年代初頭には良い気候に魅せられて移住したり、安価な農地を買い取る日本人が増えてきます。1906年のサンフランシスコ地震と、当時北カリフォルニアで激しく渦巻いていた反日感情も日本人の南への移動に拍車をかけた‘もう一つの波’でした。
*注1)エステス教授の著書 『大戦以前:サンディエゴの日本人』 (San Diego Historical Society
刊/1978年) によると、1887年の初めに当地に移住したタナカ・コウヘイという人物が記録に残る最初のサンディエゴ移民とされている。この人物は同年に創業したホテル・デル・コロナドに売る練炭を製造して生計を立てていた。*注2)日本からの直輸入品専門店として美術品などを扱い、新聞広告も出した。


——日本人の増加に伴う発展ぶりには、LAの 「リトル東京」に近いものがあったのでしょうか。

そうですね。日本人街は古いビジネス街の一角にあり、ロケーションを大雑把に言えば東西は 4th Ave.~6th Ave.、南北は J St.~Market St. 辺りでした。「リトル東京」のような名称は無く「5th & Island」の呼び方が一般的でした。古い人たちが「5th & Island」と聞けば、昔の日本人街を意味しているとピンと来るでしょう。


—— それは相当大きなコミュニティーでしたか。

まさしく。1940年当時のサンディエゴの人口が20万を少し超えるくらいなのに、郡内に住んでいた日本人(1世)、日系アメリカ人、或いは日本人を先祖に持つ人々は約2,300人を数えましたからね。


—— 当時のサンディエゴの日系人は何をして生計を立てていたのでしょう。

あらゆる職業に携わっていましたが、農業、漁業、商業の3種が主なものでした。商業はダウンタウンの「日本人ビジネス街」が中心でしたが、農業は全郡域に広がり、チュラビスタ、ネスター (チュラビスタの南)、オーシャンサイドに特に集中していましたね。


—— 日系コミュニティーは活気に溢れて繁栄していた様子ですね。

そう。太平洋戦争まではコミュニティー全体が成長しながら栄えていたと言えます。


—— 戦前の日本人を惹き付けたアメリカの魅力とは何だったのでしょう。当時の中国系移民のように、最初は鉄道工夫として働く日々だったのでしょうか。それとも別の目的で…。

彼らは進取の気性に富む人々だった。当時の日本は不況に見舞われて厳しい経済状況に置かれ、彼らが求める機会など何処にも無かった。1世たちは若い「出稼人」としてアメリカに渡り、皆が成功を夢見ていたのです。


—— 今日でも多くの人々にそうであるように、当時の日本人にもアメリカは「機会の地」だった…。

本当にそうでした。様々な制限や偏見が存在していたにも拘らず、サンディエゴもアメリカも1世たちに母国では獲得できなかった機会を与えたのです。1世たちはある意味で開拓者でしたし、よく働きました。彼らはこの地で確固たる礎(いしずえ)を築き上げていった。1970年代に多くの1世たちに日本語でインタビューを行なったことを覚えています。100回以上続いたシリーズでしたが、その中で、私の友人や同世代の日系人の親に当たる彼らの9割までがアメリカ永住の意志など無かったと応えたのです。1世たちは働いて金を稼ぐ目的でアメリカに来たわけです。私が何度も耳にした1世の言葉に「1万ドル」というのがある。彼らは1万ドルを貯めたら帰国して、レストランを経営したり漁船を購入するという算段を付けていた。しかし、1世の多くが見果てぬ夢のままに滞米を余儀なくされた。年老いても望郷の念は消えず、依然として「いつの日か帰らん」という思いが彼らには残っていたでしょう。長い歳月が流れ、心の底では「もう無理かもしれない」と感じながらね…。


—— それは受け入れるには辛すぎる現実に違いなかった…。

そうかもしれない。でも1世が勝ち取った現実とは、単独でこの地に生活の基盤を作り、太平洋戦争を挟んで2度のアメリカ人生を築いたということなのです。紛れもなく、アメリカは1世たちの故郷となりました。勿論、次世代の子供たちがホームと呼べる場所も他には無かった。彼らはアメリカ人として生まれているし。


——1941年12月7日の日米開戦で全てが終わりを告げます。第二次世界大戦は日系コミュニティーのみならずサンディエゴと世界中の人々の生活を一変させました。教授が歴史上ユニークで興味深いこの時代の灯(ともしび)を語り継ぐ、いわば“炎の番人”になられた経緯は。

1_1.jpg長年日本文化に接しながら成長し、後に研究生活と執筆活動に携わった私は、この時代を説明する文書が極端に乏しい事実を知りました。国立人文科学振興基金 (NEH) の補助金を受けてサンディエゴ日系史の発掘に着手したのが1970年。この年から1世へのインタビューと、ほとんど残されていない地元日系史に関する記録を探して翻訳作業を始めたのです。サンディエゴ歴史協会の史料を繙 (ひもと) くうち、日系人の様子を伝える写真が全く保存されていないことに気付き、1世たちの協力を求めて古い写真を集めるようになりました。現在の所蔵枚数は 6,000~8,000枚。今後も呼び掛けていきたいと思う。よくあることだが、その時は過去の歴史を記憶に留める価値が無いと誰もが思ったりする。でも、私たちは自分自身に言い聞かせなければならない。現在起きている状況も歴史そのものなんだと!


ドナルド・H・エステス 

1936年ネブラスカ州セントラルシティ生まれ (祖父が1908年に SD に定住)。米陸軍にも数年間従軍。1957年 SDSU卒、1972年 UCLA卒。43年間教鞭を執り、現在はサンディエゴ市立大学・歴史学/政治学教授。著書に『サウスベイ物語』『大戦以前:サンディエゴの日本人』など。 サンディエゴ日系米人歴史協会および全米日本人博物館顧問。妻トシエ・キャロラインさんと共にバーリンゲームに在住。ご子息2人 (マシュー・トシアキさん、ポール・クマオさん) 。趣味はアジア系アメリカ人史、日本画、書道。

(2002年8月16日号に掲載)