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新型コロナ情報を追い続けて3か月半。納得できない謎が解けた。長期の外出制限に疲弊する市民。いつまで我慢すれば危険から解放されるのか? イライラ度がMAXに到達する頃、新規感染の横ばい/漸減傾向を頼りに、米国も日本も条件付きビジネス再開に踏み切った。 でも、行政からの指示に曖昧さが残り (クリアなのは感染者数の増減だけ)、疫学者からの発展的見解も聞こえてこない。公言できない危険性を隠している? 新型ウイルスの実態解明はお手上げ? (それは危険すぎる)。COVID-19を制圧できる明快な数理モデルはないのか?・・・それがあった! 西浦博氏 (理論疫学者) が基盤にしている不等式 (1-p) x RO<1。 Pは予防接種 (行動制限) する人の割合、ROは1人の感染者が生み出す2次感染者数 (基本再生産数)。仮にROが3でも、3人のうち2人が予防接種で感染を免れたなら、残り1人にしか伝播 (でんぱ) しないことになる。3の逆数 (掛け合わせると1になる数) は約1/3なので、予防接種率が2/3を超えれば2次感染者数は1を切って数式に合致し、感染率が自然に減衰して、新型コロナ終息の見通しがつくらしい。早い話が、ワクチンが完成するまでは危険な状況に置かれていることに変わりはない。今の時点で専門家が明るい展望など言えるはずもない。 (SS)
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▽「ホンマでっか!? TV」に出演している武田邦彦先生によると、引退して時間をもてあましてしまうと、そろそろ病気にでもなって、忙しくしてみようか、という本能が働いてしまうらしい。退屈に耐え切れなくなり、老後、病気になるのは、危険だ。▽「どれも計画倒れ。だから、進まなくなった時のことも、予定に盛り込んでおくことにしたの」。友人からこんな LINE が入ってきた。確かに、計画どおりに進まないことは多い。あの件は午前中に、いや、ご飯の後に、やっぱり、入浴後に、そして、寝る前にやろう … となり、挙げ句の果てに、明日の自分、2倍頑張れ!状態になる。とても危険だ。▽子どもの頃、炭火の一酸化炭素中毒で意識を失ったり、ワンダーフォーゲルの合宿で山から転げ落ちたり、飲み会の帰りに五反田であやうく暴漢に襲われそうになったり、ワシントン州の冬道で車がスピンしたり、結構、危険な目に遭っている。今、こうして生かされていることが奇跡の連続なのだと思う。▽先日、WHOが、新型コロナウイルスについて「世界は危険な新局面に入った」と警鐘を鳴らした。100年前のスペイン風邪では、第2波が世界で同時に起こり、病原性が強まって致死率が10倍になり、死者が急増したらしい。1日も早く有効なワクチンや治療薬が開発され、安心安全な暮らしが戻りますように! (NS)
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「危険」というのは、人、環境、使い方、考え方によって変わってくると思う。例えば、ナイフはなきゃいけない、 とても便利なツール。ナイフを使って、いろいろな美味しい料理ができる。でも自分の手をカットしたり、人を刺したり、危険なアイテムでもある。車は出勤したり、買い物したり、人に会いに行ったり、生活/人生を楽しむのになきゃいけない交通手段。でも気をつけないと、その車が人、建物、他の車と衝突して、自分と他人の命を失う危険性もかなり高い。昔と違って、私たちは携帯電話やコンピュータ、ラップトップのようなハイテック製品を使って毎日動いている。非常に便利で、どこへ行っても仕事ができるようになっている。24時間いつでもどこでも、連絡がつけられるのは素晴らしいこと。 でも、体とマインドを全然休められない危険な環境も人類が作ったのかもしれない。アメリカは素晴らしい国。努力すれば、夢が実現できる国だと思っている。しかし、「自由」の言葉を間違えて使うと「危険」な状態になる。もっと「平和」を感じたいと思う今の私。 (S.C.C.N.)
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この夏、子供たちが6歳と8歳になる。5〜8年前と比べると随分楽になった。子どもが乳幼児のころは本当に目が離せなかった。新生児はブランケットや枕で窒息の危険があるので、寝かせる時に周りに何も置かないように、寝ている間に間違ってつぶされないようにと、気が気でなかった。ベッドからの落下防止にベッドガードを付けていたのだが、ベッドガードとマットレスの隙間に落ちそうで夜中に何度も確認していた。お風呂は、ベビーバスにお湯を溜めて入浴させていた。ハイハイで動き回るようになると、危険がいっぱいのキッチンへ入れないように柵を付けた。毎度ロックを外して柵の下の部分を跨 (また) いで (慣れるまで、忘れてつまずく)、キッチンとリビングを行き来していた。指を挟んだり、中の細々したものを手にしないように、家中の開き戸と引き出しにドアロックを付けた。何でも口に入れるので、細かいものは全てしまい込み、感電予防にコンセントには全てカバーを付けた。子供たちの成長に伴って、ベビーバス、ベッドガード、キッチンの柵がなくなり、ドアロックも外した。夫も私もよくやったなと思う。まだまだ成長途中の子供たち。いろいろ心配することもあるけど、のびのびと育っていってほしい。 (YA) |
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我が家の庭にはいろいろな生き物がやってくる。トカゲ、ネズミ、オポッサム、スカンク、ラクーン、などなど。最近、地面に小さな穴がいくつか出来ていて、何の動物が作った穴なんだろうねと、家族で話していた。ある日、庭でくつろいでいた猫がいきなりガバッと飛び起きて、地面に頭を埋めるような格好をしているので、何かと思ってそばに行ったら、例の穴に顔を突っ込んでいた。蛇にでも噛まれたら大変と猫をどかして、穴を見ていたら、しばらくして穴の奥から土がバッバッと掻き出された。近づきたがる猫を押さえて、またしばらく穴を見ていたら、可愛らしい顔をした小動物が頭を突き出した。ゴーファーだった。このゴーファー、とてものんびりした子で、私たち人間と猫がそばでじっと見つめているのも気にせず(気がつかず?)、土を掻き出したり、穴から頭を突き出して周りの様子を窺ったりしている。猫はいてもたってもいられないといった風に、そわそわとそのゴーファーを見つめている。それ以来、猫は穴の周辺に寝そべって好機を狙っている模様。危険な状況を察知して、猫に捕まらないでね、ゴーファーよ。 (RN)
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人は生まれた瞬間から、事件や事故、病気など、命の危険にさらされながら生きている。生まれる機会は1度なのに、死ぬ機会は山ほどある。そんな危険を潜り抜けて、日々「ああ、今日も生きていられた。よかった、よかった」と繰り返しながら、寿命を全うする人も、残念ながらできない人も。そんな中、私は周りから「100までは絶対に生きる」とよく言われる。私もそうかなあと思うことがある。というのは、 子供時代、階段から転げ落ちるだけでなく、窓や床から3回も落ちた。1度目は鬼ごっこをしていて、窓の外に隠れようとしたら、手が滑って落下。一旦、隣の家の屋根に落ち、そこから我が家の1階窓のひさしに落ちたが、最終的な高さが低かったので助かった。2度目は隣家のまだ建築途中のべニア板だけの天井に足を踏み入れ、コンクリートの床の上に。幸い、かんな屑が貯めてあった所に落ちてそれがクッションとなり、助かった。3度目は新築の我が家の2階の窓から。コンクリートの門塀 (もんぺい) の中に余った瓦が積み上げてあったのだが、コンクリの門と瓦の僅かな柔土 (やわつち) の隙間に運良く落ちて助かった。さすがに3度目は気を失っていて、両親はとうとう死んだ!と思ったらしい。これらの経験から、私はどんなに危険な目に遭っても、不死身!?と思う次第。100までは頑張れるかな? (Belle) |
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昨今の自宅待機令で、YouTubeともっと仲良くなり、出会ってしまった沖縄のあるサイト。コレがめちゃめちゃおもしろい (笑)。無人島で釣り生活をしたり、捕まえたイカをそのままかじって食べたり (かなりワイルド 笑)、まず、テントがない。でも、寒いから、砂浜に穴掘って寝ぐらにしたり 笑、釣った魚を近くの食堂に売りに行ったり、魚をさばくのに、うろこを5本の指で全力ではがし始めたり(想像もつかん行動 笑)、人食いサメを釣ってしまったけど、重くて海から引き上げられず、ロープで縛り、車で引っ張って、別の車の屋根に載せたりと、やんちゃもいいとこ (笑)。中でも危険だったのが、ハブ捕り (さすがウチナンチュー 笑) からの、ハブ酒造り(笑)、しかも、キングギドラ仕様!(ハブx 3!笑) 捕るだけでも危険なのに、3匹相手にハブ酒ぅ~? 捕まえてきたハブ (x 3 笑) を氷に漬けて眠らせ → 泡盛漬けでハブを酔わせるらしい (笑)。ハブの内臓を取るときも、シッポ (ある? 笑) は動いてるし (怖) ハブ (x 3 笑) を扱う手順は、噛まれたら死んじゃうかもとの背中合わせで、危険度大! 見た目をよくするために、ハブ (x 3 笑) のお口をガッと開けさせて牙を見せるんだけど、毒がまだまだ出るわ、出るわ。危険なんだけど、超笑える。わたしって S? (Mか?笑)。 (りさ子と彩雲と那月と満星が姪) |
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このコロナ自宅自粛要請からの『危険』。①人間はいくらでも “怠け者” になれる。以前は息子たちの弁当作りで朝5時には起床していた。学校へ迎えに行く前に出来ることを済まし、スイミングの練習に連れて行き、待ち時間を有効に使い、帰宅後、夕食と次の日の用意。1日24時間を有効的に使っていた。が、自粛要請1週間後には、この世の中に時計がなくなってしまったような生活に慣れてしまっていた。ところが、2週間前にスイミングの練習が再開したのだ! 朝6時20分からの練習。家を出るのは早朝5時50分。ダラダラ生活を偲んでしまう自分。危険だ。②コロナデブ。ジムが閉まってしまった。運動ができないと困ってしまった (笑)。特にやることもないから、スーパーをいつもより時間をかけて探索。「あら?これ美味しそうね」「これ、トライしてみようかな」と、いつもなら買わないジャンクを買っている自分。新しい発見を繰り返している間に体重増加。危険だ。③化粧。マスク必須の日常。マスクが汚れるのを気にして、目だけしかメイクしないようになった私。女度 (おんなど) … 急降下。コロナウイルスは危険だが、第2次?第3次?災害も危険だ。 (IE) |
(2020年7月1日号に掲載)

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「盛夏の灼熱の光は、我らを深く死に導く」 (誰の言葉だっけ?)。夏の太陽は旺盛な生命力の象徴なのに、胸騒ぎを覚える不吉さがある。特に日本の夏。幼少期から今まで、夏に寄せるスリリングな感触は変わらない。湿気まみれの暑苦しさ (諦念)、蝉の鳴き声 (読経)、蚊取線香の香りと煙 (法要) … 前世、現世、来世が渾然一体となった奥深い安堵感かも。COVID-19がもたらす死への恐怖感とは違う。茨城県の漁村 (平潟港) に家族と逗留していた6歳の夏。喫茶店で母とかき氷を食べていると、男児が溺れて行方不明になり、漁村全体が騒然となった。警察と村人総出の捜索が続いたが、少年は見つからない。薄暮に霞む無表情な漁港の海が幸福感を奪い去った。止むことのない蜩 (ひぐらし) の合唱、無機質に旋回して夜のしじまを破る灯台の光 … 鮮烈な記憶。2つの対照的な海岸があった。荒波が人を寄せつけぬ男性的な五浦 (いづら) 海岸と穏やかで女性的な勿来 (なこそ) 海岸。その夏に初めて海を見て、波の表情に人の心を感じた。五浦海岸には尊厳、勿来海岸には慈愛、静かな平潟港には安息、断崖絶壁から見下ろす太平洋には畏怖を ―― 。人間の喜びと悲しみは表裏一体と教えてくれた “原風景” となった。それにしても、父はどうして寂寥感の漂う8月末の海を好んだのだろう。 (SS)
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▽子どもの頃、毎夏、潮干狩りを楽しんだ千葉県船橋市の海岸には、当時、国内最大のレジャーランド「船橋ヘルスセンター」があった。遊園地、プール、ボーリング場、観覧車、ホテル、大ローマ風呂、宴会場などがあり、無節操なパワーが炸裂していた。「ヘルスセンター」は1977年に閉園。1983年、すぐ近くに「東京ディズニーランド」がオープンした。▽夏と言えば甲子園。高校1年の時、東関東大会を制覇した母校、千葉商を応援するためにバスで甲子園に行ったことがある。緑のツタが絡まる球場はとにかく暑かった。校旗を掲げている男子にバケツで水をかけ、カチワリやタオルを持って走り回っている間に試合は終わった。▽学生時代、ワンゲルに入部してあちこちの山に登った。夏合宿ともなると、30kgの荷物を背負って1日10時間、約1週間、ひたすら山を歩く。飯豊連峰、朝日連峰、日本アルプスなどの山頂から稜線を振り返り、歩いてきた道のりと、壮大な景色にいつも感動した。▽20年前の夏、両親と姪がサンディエゴの我が家に初めてやって来た。SDを満喫した後、 「モニュメントバレーと3大国立公園」のバスツアーに参加。皆のスリッパを用意したまでは良かったのだが、自分の下着を忘れてしまい、母の綿製のデカパンを穿きながらアメリカ西部の壮大な自然を満喫した。 (NS)
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私は暑い夏に生まれた。2年前の夏、現在の家 (自分への誕生日プレゼント?^.^) に引っ越してきた。一階建て、天井が非常に高く(2階くらいの高さ)、風通しがとても良い家。上手く窓を開けたり、閉めたりすれば、エアコンを付けなくても、暑い夏でも快適に過ごせる。正式に入居する前、家具なしの新しい家で一晩 "キャンプ" をした。今までの家とまったく正反対で、夜は非常に静かで、虫の鳴き声しか聞こえないエリア。あの夜、リビングルームにブランケットを敷き、天井のスカイライトから綺麗なお月様と星を観ながら、夫とこの家を見つけるまでの "長い経歴" (1.5年間、400軒以上の家、オープンハウスを見てきた) の話をした。あの夏から少なくとも2年が経った。問題になっていたバックヤードの大きな7本の木をカット、広い範囲に伸びた雑草を抜く作業、キャニオン側の敷地内の雑木をカット、、、、いろいろな作業をしていた。自分の理想の家 (全然豪華じゃないけどね) に住むことができることに感謝。そして幸せを感じる。 (S.C.C.N.)
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毎年夏になると、母の実家に父を除く親子3人で帰省していた。母の実家は隣の県で、母の運転する車で2時間半ほど掛かっていた。車酔いする私は助手席に座り、気持ち悪くならないように、少し緊張しながら2時間半、外の景色を見たり、母と話をしたりしながら過ごすと、それが見慣れた景観になり、祖父母の住む家に到着する。車酔いとは縁のない妹は、旅の間、後部座席で横になり、昼寝したり、本を読んだりしていた。古い日本家屋の玄関をガラガラと開けると、祖母がにこやかに「よう来たねー、つかれたやろ」と私たちを迎えてくれた。滞在中、日中は田畑の畦道を散歩したり、従兄弟たちとセミを採ったり、スイカを食べたり、祖父母の家のすぐそばに住む叔母に手芸やお菓子づくりを教えてもらったりして過ごした。夜は母と妹と3人で蚊帳の中で寝るのが面白かった。今でも、夏の記憶というと祖父母の家が思い浮かぶ。ここ数年、夏は北カリフォルニアに暮らす夫の母の家にお邪魔している。子供たちはプールで泳いだり、裏庭でキャンプをしたりして夏休みを満喫している。子供たちにとっての夏の楽しい記憶になるといいなと思う。 (YA)
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夏の記憶といえば・・・ 蚊取り線香の匂い、スイカ割り、かき氷、キャンプ、凍らせたポカリスエット、海の家、サザエの壺焼き、夏祭り、ラジオ体操、寝台車、etc。こうやって挙げてみると、どれも日本に暮らしていた頃、それも子供時代の記憶が多いことに気づく。大人になってからも、いろいろ夏の思い出はあるはずなのに不思議。今でも夏に日本の実家に帰省中、セミの声、夜に聞こえてくるカエルの大合唱、夕暮れ時に鳴き始めるヒグラシの声を聞くと、幼い頃の思い出が一気に蘇ってくる。サンディエゴに住み始めてからの夏の記憶といえば、娘を妊娠中の夏。その年はサンディエゴには珍しく、蒸し暑い猛暑日が続き、冷房のない自宅で臨月の大きなお腹を抱えた私は暑さでバテそうになり、慌てて簡易式のクーラーを買って設置した。予定日を1週間以上すぎてやっと生まれてきた娘と一緒に帰宅すると、庭のプルメリアが綺麗に咲いていたのをよく覚えている。あれから月日は経ち、娘も12歳になった。今年は新型コロナウイルスの影響でいろいろな事が変わってしまい、いつもの夏の過ごし方もできない状態。まだまだ大変な状況が続いているが、家族みな、元気に日々を過ごせることに感謝したい。 (RN)
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父は5人妹弟の長男。彼の祖父母は瀬戸内海の海辺で半農半漁を営んでいた。器用だった彼は、やがて田舎の海辺を去り、町に出て技術者となり、呉 (広島県) の造船所に勤務の後、自分で工場を立ち上げた。仲の良い妹弟4人に次々と機械と従業員を分け与え、それぞれを独立させた親分肌だった。毎年夏になると、彼と妹弟の家族全員が海辺の祖父母の家に集まり、三世代集合の大宴会が始まるのである。当時は瀬戸内海の透明度も高く、浜辺では直径10㎝はあろうかという蛤や大貝がざくざく取れて、それらを焼いて皆で食べる。祖母は娘や嫁たちと、総勢30人分ほどの天ぷらを朝から揚げている。揚がった天ぷらは麹蓋という平たい木製の特大盆のような容器に盛られる。アクセントに緑色の色粉が使われた天ぷらもあった。それを兄弟姉妹、姪や甥、従兄妹らとわいわい、がやがや言いながら食べる。毎年夏に繰り広げられる、平和そのものの家族絵巻。そんなノスタルジックな思い出も、今は昔。大手鉄鋼メーカーが進出して海は汚染され、魚介類の漁は大打撃を食らってしまった。あれから半世紀以上。祖父母どころか、両親さえもなくなってしまった今、二度と味わえない幻と化した10㎝大の蛤と、薄緑色の衣がついた天ぷら。これぞ私の夏の記憶以外の何物でもない。 (Belle)
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わたしの育った愛知県春日井市の実家の裏には、イチロ-選手の母校、愛工大名電高校 (名電) の野球部合宿所があって、基本、一年を通して金属バットの音がカーン、カーンって鳴り響いていた。一番うるさく (うるさかったんだ 笑) 響いていたのは、夏。日が長いから、朝っぱらから夜まで音が鳴ってるし、暑くて窓開けているので、よーーく聞こえる。昼間はセミの鳴き声と混ざって、本当に暑苦しかったわ (笑)。野球部のお兄ちゃんたちは、家の近所や堤防を走っているのでよく見かけるし、当時の中村監督の娘さんと歳が近かったので、小学校の水泳大会/運動会となると、野球部員が娘を応援に詰め掛けていた (笑)。巷では、お兄ちゃんたちは大人気。わたしも調子にのって名電野球部のグラウンドを遊び場としていた。高校生と遊ぶのがすっごく楽しかった子供時代の中でも一番感動したのは、お兄ちゃんたちを応援に甲子園へ行ったこと。友達のお父さんの軽トラで向かい、暗いうちから入口に並んだよ。でも甲子園ということは、いろいろな高校のスターがいるワケよ。目移りするほど (笑)。名電野球部そっちのけで他校の球児をギャーギャー叫んで写真撮ってた、かわいい夏の記憶ですわ (球児見てギャーギャー言うの、かわいすぎじゃね?笑) (あれ?感動はどこへ?笑)。(りさ子と彩雲と那月と満星が姪)
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夏の思い出と言えば、地元の『河童まつり』。♪うしーくー沼には、カッパがござーるぅ♪ カッパ誰の子、芋銭 (うせん) の子~♪ という河童ばやし。牛久 (茨城県) で小川芋銭 (河童の絵で有名な画家) を知らない人は、非国民ならぬ非市民。中学の時には友達と行き、見回りの先生に 「おごってくれ」とたかり、高校時代には好きな人と手をつないでプラプラ。2回ほどテキ屋のバイトをしたことがあった。紐を引っ張ったら賞品と繋がっているというゲーム露店。これがまたハッタリで、紐は豪華賞品には全く繋がっていないというインチキ商売だった。3年前、丁度、帰省時が河童まつりと重なった。私も軽く25年ぶりだ。子供たちにも体験させようと、地元の友達と妹家族で行ってみた。どうせインチキであろう露店ゲーム (笑)、たこ焼き、焼きそばを買って、思い切り日本の祭りを満喫。メインイベントは、地区ごとにいろいろな恰好をした、河童ばやし音頭パレード。観客で見ていたら、友達の地区が近づいてきた。皆でお揃いのハッピを着て楽しそう!「Iちゃん!入りなよ! 一緒に踊ろう!」と言い出した。遠慮していたら、周りのおばちゃん、おじちゃんまで「入れ!入れ!」と言ってくる。ここはノリだ!と思い、息子たちも引き連れジョイン! 楽しかった~。 地元ラブ ♡ (IE) |
(2020年8月1日号に掲載)

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アメリカに来た頃、金を無心してくる無遠慮な panhandlers が怖かった。他人に金銭を要求するのは “自尊心を捨てた行為” であり、つまるところ “優しい強盗” に思えてならなかった。拒絶した場合の反応を考えると不安になり、いつもクオーター2~3枚を握らせていた。ましてや「恥の文化」の中で生きる日本人には、あり得ないはずの話 (?)。新幹線の乗客が「あの … 突然で申し訳ないのですが、千円ほど貸して頂けないでしょうか」と話しかけてきた。髪が少し乱れ、深い皺が刻まれた爺さん。道楽が過ぎて若い頃に離婚。絶縁状態の息子が死の床にあると知り、新幹線に飛び乗ったが、所持金がないことに気づいたという。唖然としている私をよそに身の上話が続く。疑念は残ったが、私の興味は千円を得ようとする必死の演技 (?) に向いていた。詐欺被害を覚悟で千円札を差し出し、返済の宛先を日本の母親の住所にした。窓越しに深々と頭を下げる老人。「オレも人が良い」と自嘲しながら改札口を出た。帰米して2週間後、母のもとに1通の手紙が届く。そこには息子の死に目に会えた喜びと感謝が綴られ、千円札も忍ばせてあった。爺さんのストーリーはウソかも。でも、あの見知らぬ老人は赤の他人の私との約束を守った。それこそが真実。 (SS) |
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▽「もし復員できたら、家族のもとに」。第二次世界大戦下、シベリアの極限の飢えと寒さに苦しんだ父とその人は、頭髪と爪を交換した。戦友は約束を守り、祖母に 「遺品」 を届けてくれた。戦後丸3年が経って、父は復員。そんな悲しい約束があったことを忘れたくない。▽20年ぶりにぎっくり腰をやってしまった。最初の2日間はものすごい激痛で、寝返りも、座ることもできなかった。「これを機会に、運動を習慣化しよう」と自分に約束した。▽配偶者に先立たれた人なんて、世の中には沢山いる。でも、男やもめになった旦那の姿を想像すると、辛いものがある。「俺より早く逝ってはいけない♪」。若い頃の冗談めかした約束を守りたいと思うようになった。▽約束の時間よりいつも遅れてくるヒトがいる。ある研究によると、原因はその人のキャラにあるらしい。同時に複数のことをやりすぎる、のんびりした性格、体内時計が動いていない等々。ギリチョン行動が得意な自分も気をつけよう。▽「2度目の東京オリンピックを一緒に見ようね」。東京開催が決まった日、父とそんな約束をした。何と、その世紀の祭典が来年開催される。1964年と2020年の両方の大会を見られるのは、60歳〜90歳代。年々その人口が減ることに、一抹の寂しさを覚えるが、父の分までしっかり見たいと思う。 (NS) |
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自分にできないことを「できる」と約束してほしくない! 約束したら、絶対守ってほしい! この世の中が変わってきたのか、私が“古い人間” になったせいなのか、最近、いい加減な人が増えてきたような気がする。年が明けてから1か月以上経ったが、我が家はソーラーパネルの設置、屋根、ペイントなど、大幅にいろいろな家関係の工事をいくつかの業者さんに頼んでいる。どの業者さんも基本的に良い仕事をしてくれているし、お願いしていることもきちんとやってくれているけど、来るという日に来ない、来ないはずの日に来る。。。。スケジュールがハンドルしにくいことが頻繁にあって、私も旦那もとても困っている。約束していたスケジュールがうまくいかない場合は、簡単にテキストひとつで知らせてくれればいいのに、それもできないのはなぜだろう??? 私には理解できない。もしかしたら 「約束」は「絶対」の意味じゃなく、ただの「予定」という “業界用語”?? これからももっと “業界用語” を理解しないといけないかも (笑)! (S.C.C.N.) |
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うちの平日の日程は次の通りだ。7時半起床。私 → シャワーを浴び、身支度をする。子どもが前日の夜にお風呂に入っていない場合は、子どもたちにもシャワーを浴びさせる。夫 → 子供たちに朝ご飯を食べさせ、息子の歯磨き、着替えを手伝う。私 → 8時45分までに息子と家を出て、小学校に息子をドロップした後、出勤。夫 → お昼12時に娘をプリスクールに連れていく。3時に娘のお迎えに行き、4時40分に息子をピックアップ。3人で家に帰る。私 → 5時半に会社を出て、6時過ぎに帰宅。帰宅すると、家は散らかり放題、子供たちはタブレットを観て3人でだらだら〜。「一体、家に帰ってから今まで何をしていたの?(怒)」ということが多かった。だが最近、夫が子供たちと “夕方家に帰ったらすること” の約束事を作って実施している。家に帰ると、まず『お風呂』、それから『勉強』、その後『遊ぶ』。夕飯を食べ、歯磨き、ストーリータイムの後、夜8時半までに就寝。これは助かる! ぜひ、このまま続けてほしい。 (YA) |
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約束を守る人、すばらしい。約束をいつもきちんと守る人がいると、それだけで、その人のすべてを信用したくなる。逆に、約束の時間にいつも遅れてくる人、やると言っていつまでたってもやってくれない人、貸したものをいっこうに返してくれない人などへの信頼度は一気に下降する。自分自身の今までを振り返ってみて、約束は比較的きちんと守ってきたとは思うのだが、それでも守れなかった約束もたくさんあるし、それが原因の苦い思い出もある。年を重ね、いろいろと失敗も重ね、最近は、簡単に人と約束を交わさないようにしている自分がいることに気がつく。できない約束なら最初からしないのだが、その時は絶対に守れると思ってした約束でも、守れないこともやはりあるのだ。相手が大丈夫だよと言ってくれても、こちらは申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまう。そういう状況になりたくないから、最初からちょっとでも無理がありそうな約束はしないようにしている。そして「多分無理だけど、できたらね」と、ものすごく曖昧な約束をすることも多い。でも、さすがにいつもこればかりだと、今でも少ない友人・知人がもっと少なくなっちゃうかな(汗) (RN) |
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「一生かけて君を幸せにする。約束する」。婚約や結婚の時に口から出されるこんな言葉の、なんとむなしいことか。これがもし、もし本当だったら、浮気も離婚も起こらないはず。そう、「約束は破られるためにある」のである。その言葉を発して、スターリンは日ソ中立条約を突然破ったという。国と国との約束事でさえ平気で破られるのだ。個人と個人の約束など、あってないようなものではないか。とは言え、この人間社会は時間やお金など、約束事だらけで成り立っている。私も過去に借金を依頼された際、借主は「何月何日までに必ず返しますから」と約束する。私はその言葉を信じてお金を貸す。ところが期限になってもなしのつぶて、ということが数回あった。時間の約束もしかり。100回待ち合せたら150回遅れるという喩えが出るほどの、遅れ癖がある人もいた。約束は破られるため … とはいえ、約束は破ることを前提にするのではなく、「守る」ことが大前提にあると思うのだ。約束が守られてこそ、信頼関係が成り立つというものである。事情や環境などが変わるにつれ、心や考えは変わる。それは否めないことである。故に変わった時は、誠意をもって、前もって相手にそれを伝える勇気と真摯さを持つこと。人間関係を保つためには不可欠なことだ。 (Belle) |
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年末、春日井市に帰ったとき、近所の林医院で初めて健康診断を受けた。心電図やら脈数やら採血したりだの、尿をコップに入れて小窓に置いたり (コレ分かる? 笑) だの。帰りに 「数日後に持ってきてね」 と “痰入れ” (← オエっ!) と “検便キット (2日分)” を渡された。翌日からニッポン国内お遊びの旅で1週間は医院に帰ってこれない、けどせっかく健康診断をしてくれるから、がんばって全うするよ!と誓い、痰入れと検便キットをバックパックに隠し入れ (恥ずかしいので 笑)、信濃特急で長野へ! 寒すぎてか、、、うXこでなーい (Deny 笑!)。お次は飛んで南国石垣島へ (笑)。暑すぎてか、、、うXこ、でた (笑) が ーー ! やっぱ自分ちじゃないと採取できん! 断念!(涙) なんやかんやで日本列島ざっと計算すると5,200Km、痰・便採取できず!(号泣) サンディエゴへ向かう朝、林医院に戻り 「取れませんでした、しかも検便キットなくしちゃったので (なくすか?) もう1セットください (くれた 笑)」。採取に成功したのは、、キットたちがプラス9,000Km移動してから〜!(笑)。(痰も難しい!)。林医院宛て郵便の中身を記入するのに、迷った結果 “Food” と書いてしまった、アハハ (あはは?笑) (税関殿、開けないほうが・・笑)。林先生、約束はウーンと守ったべ~ (爆!)。 (りさ子と彩雲と那月と満星が姪) |
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私は怒っている。簡単に約束を破る夫に。私は確実に守れる自信があることしか約束をしない。特に子供とは。大人相手でもしないけど。しかし私の夫は、簡単に子供たちと適当に約束をする。「明日は一日中一緒に遊ぶからな〜」「明日はお外でピクニックをしよう!」などなど、不確実な約束を簡単にしては、簡単に破る、もしくは理由をつけて無理矢理納得させる。子供たちは楽しい約束事は決して忘れず、本当に楽しみにしているのだ、そして、それが叶わなかった時のショックは、大人が思うよりずっとずっと大きいのだと思う。だから、私は絶対に守れる約束しか子供とはしないのだ。期待をさせてガッカリさせたくない。親として当然のことではないだろうか。それなのに大人が約束破ってどうする! これでこれから先、子供が約束を破ったときにちゃんと叱れるのか? 自分のことは棚に上げて・・と、言い返されるに違いない。ということで、今回は私の夫の約束破りのグチでした。すみません。 (SU) |
(2019年2月16日号に掲載)

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胸さわぎが人の死を予告したり、災厄から身を守ったという話はよく耳にする。実際に、私自身や親族も似たような体験をしている。▽日本にいる母が三日三晩、繰り返し電話をかけてきた。意味のない不安に襲われ、不幸が起こるのではと心細くなってしまい、異国に暮らす私たち夫婦の身を案じて連絡してきたのだ。「病気になっていない?」「困っていない?」と、早口で尋ねる母。笑いながら「心配ないよ」と応える私。翌日「本当に大丈夫なの?」と再び母。次の日も「やっぱり何か変だよ」と言ってくる。そして、4日目に妹が急死した。▽帰米する当日、脳出血で車イス生活を続けていた父が「今度会うときは葬式だな」とポツリと呟いて笑った。「何言ってんだよ」と私も笑いながら返したが、その穏やかな佇まいに一瞬ギョッとして胸さわぎを覚えた。攻撃的で相手を威圧する鋭さが消え失せた、初めて見る父の姿。それが最後に見た父の姿となった。▽中国・三国時代の軍師、諸葛孔明が用いた占術「奇門遁甲」の原理を専門家から教わった。生来、人間に備わる「虫の知らせ」と言うべき鋭敏な直感力をベースにした開運術という。センサーの感度は文明の発達とともに低下しているが、極度の “危機的状況” に直面すると潜在能力が発動するらしい。 (SS) |
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▽予習をしていない時に限って当てられる。心臓がバクバクして胸騒ぎ。「お前の顔にも、大きな黒子ついているぞ」と国語の先生。クラス全員が大爆笑。クロコがホクロだと知った瞬間だ。それ以降、前もって、教科書に目を通すようになった。▽胸騒ぎで思い出すのは、郷ひろみの「2億4千万の瞳」。♪ 出会いは億千万の胸騒ぎ〜。当時の日本の総人口が約1億2千万人で、瞳の数が2億4千万ということらしい。全ての日本国民が胸騒ぎということだ。確かに、エキゾチック ジャパン ♪ だ。▽アメリカの神経学者の研究によると、人間には潜在的に sixth sense (第六感) が備わっているという。胸騒ぎや虫の知らせなど、非常事態に陥ると、その引き出しにアクセスできる人がいるとのこと。▽目的地に向かって迷わず空を飛ぶ渡り鳥や、地震の直前に騒ぎ立てる動物たちは、地磁気の異常や電磁波を体の特殊な受容体で感知するとか。この磁気感覚は、人間の網膜にもある特殊なタンパク質の働きを利用して得られるそうだ。▽残念ながら、自分は第六感に無縁の人間だ。祖父、祖母、そして、母、父が亡くなる時も、まったく胸騒ぎを覚えなかった。でも、引き出しの奥にしまわれているのだとしたら、ドバっと出てくる可能性はあるわけで、いつか、そんなセンサーを獲得できたらと思っている。(NS) |
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我が家の1匹目のニャンちゃん Socks (ソックス) が死んで3か月後に、Zoe (ゾイ) がうちの敷地に姿を現わした。100%ノラで子猫のZoeはとても可愛かった。でも、人に慣れていなかったので、近づこうとするとすぐ逃げてしまう。ある夜、旦那が向かい側から道を渡ろうとした Zoe を心配そうに見ていた。まるで、我が家めがけて駆けてきたようだった。そして、1台の車が猛スピードで走ってきて、 “ポン” というと音と “ミギャー” というスゴい声が聞こえた。それを目撃した旦那は胸騒ぎを感じていた。私に「Oh my God !! Zoeは車に引かれた!」と。すぐ Zoe を探したが、どこにもいなかった。。。「絶対、どこかで苦しんでいて、死にそうになっているよ!」と旦那が私に叫んだ。あの晩、二人は泣き続けた。。。その後、数日間、Zoe の姿はなく、「やはり」と私も思った。でも、5日目に奇跡のように、Zoe が元気な姿でドアの前に現れた! 本当に嬉しかった! Zoe はあれから私たちの家族の一員になり、11年も一緒に過ごした。そして昨年、Zoe が天国へ (!_!)。今は猫を飼っていない。 またいつか Zoe と Socks のような sweet 猫に出会えたらと。。。 (S.C.C.N.) |
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小学5年生のときに初めて猫を飼った。その子はペットショップで売れ残っていた。もう仔猫と言えないほど育ちすぎていたその子は、ゴージャスな長毛種のペルシャ猫であるにもかかわらず、純白の毛は薄汚れて黄ばんで、毛玉の塊だらけ、オッドアイの顔も何だかふて腐れて可愛くなかった。店員さんに破格の値段を言われ、母が財布のひもを緩めた。初めての猫! 私も妹も大興奮だった。だが、母は大変そうだった。体のあちこちに出来た毛玉を櫛で梳 (と) かそうと頑張ったが、歯が立たず、結局トリマーに連れて行った。トリマーでもどうにも出来なかったようで、毛玉の箇所をトリムされ、あちこちハゲになって帰ってきた。ブーたれた顔にハゲだらけの体。ますます可愛くないが、私 (と家族) の猫! やっぱり可愛かった。名前は私がつけた。ペルシャ猫の「ペル」。ペルはあまり丈夫でなく、すぐお腹を下すし、愛想もない子。でも、とても可愛がっていた。ある日、ペルの姿が見当らない。探しても探しても見つからない。胸騒ぎを覚えて、2階の窓から家のすぐ側の線路の辺りを見ると、線路に白いものが・・。1年も一緒にいられなかった。 (YA) |
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先日、友人の犬を数日間預かった。猫が2匹いるので、どうなることか不安もあったが、引き受けた。諸々の事情を考慮し、猫たちは寝室に隔離。夕方、犬を連れて友人が来訪。犬のベッド、餌と水を入れるボール、ドッグフード、お気に入りのおもちゃ数個、首輪とリーシュも一緒。ベッドをリビングに、餌と水のボールはキッチンの床に置く。犬は何だかソワソワと落ち着かない様子で、オーナーにまとわりついている。この時点で、何かが変だと感づいていたのかもしれない。犬も胸さわぎを覚えるのなら、きっとこの子もこの時、胸さわぎ全開だったと思う。夕食を一緒に食べ、しばらく一緒におしゃべりをし、夜半に友人は帰ることに。犬は、置いて行かれないよう、オーナーの後にしっかりとついていく。これから起こることを知っている私たち人間は、同情の眼差しで犬を見る。犬にハグし、家を出る友人。閉められた扉の前で呆然とする犬。胸さわぎ的中。かわいそうな犬は、それからしばらく、クーンクーンと寂しそうに鳴きながら、扉に顔をくっつけて座っていた。でも、その後は諦めたらしく、私たちを仮のオーナーとして慕ってくれ、散歩にも一緒に行き、一緒に寝て、私たち家族は犬とのつかの間の生活を楽しんだ。 (RN) |
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遠~い昔の1月の末。東京は中野の下宿先で、その日は珍しく深夜まで試験勉強をしていた。すると下宿先に電話。午前2時ごろである。「今頃、電話? 誰?」と思いながら、何か胸騒ぎがした。下宿先の家族は皆寝入っているのにもかかわらず、おばさんが電話を取り 「ベルさん、あなたによ」。慌てて2階から駆け下りて、電話口に出ると、「お母さんが具合が悪いから、朝一番の新幹線で帰って来なさい」と叔母が。「叔母ちゃん、明日試験だから帰れないよ」「とにかく、帰って来なさい」。私は朝6時の新幹線に飛び乗って福山へ。母は数日前に入院したとは聞いていたが、まさか・・・。列車が福山に近づくにつれて、胸騒ぎがひどくなった。駅に迎えに来ていた兄に、「病院に直接行こう」。私の言葉を無視して、兄は私を家に連れて帰った。そこには、すでに黒白の幕が・・・。私はその光景を目の当たりにして、目の前が真っ白になって、その場でひっくり返った。入院していたとは聞いたが、死ぬほどひどいとは聞いていなかった。あの胸騒ぎは、なんと母の死であったのか。故郷を離れて1年目。喧嘩ばかりしていた母から届く、衣類を詰めた箱の中に、そっと入っていた私が大好きな駄菓子に涙し、母の存在の有り難みを感じていた矢先であった。 (Belle) |
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前回の続き・・ (前号を読んでいない方はあしからZoo 笑)。果たしてまた9,000kmのフライトを経て、わたしの航空便 (うXこ) は、無事に林医院さんに届いたのだろうかと思っていたら、実家の母から「ちょっとあんた! 血便らしく細胞の検査しなさいって!」と。「なーんだ、ちゃんと届いたじゃんか」 と国際郵便事情に感心したのも束の間、「あれ? ちょと待てよ。ケツベン? 細胞けんさあー!?」と、胸騒ぎしまくり! そして 「ニッポンのお医者さんは、本人以外にも結果を打ち明けるのね」と、客観的に事態を受けとめる。冷静に考えた結果、「あ! これは細胞じゃなくて、再検便じゃ!」。なぜなら失くしたと思っていた検便キットがあったー!(笑)。国際電話で林先生に「痔かもしれないし、キットがもう1セットあるので再検便してください」。田舎では先生の言うことは絶対で、林先生は多分、このような患者からのリクエストを受けたことがなく「え? もう1回検便?」と面食らっていた(笑)。胸騒ぎ中の幸いは、今が冬でよかったぁ! 夏だったら郵便屋さんに申し訳ねぇ。検便の封筒に中身は “Food” と記載するでしょ (するの? 笑)。 でも、ツーンと食べ物以外の何かが匂ってただろうな (オエっ! 笑)。よおーし! 検便に愛着が湧いてきたので、これからは Ben って呼ぼう! (笑 ?)。 (りさ子と彩雲と那月と満星が姪) |
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私は『胸さわぎ』というものを感じたことがない。嫌なことが起こる時に感じる、前兆のようなものらしいが・・。私は科学的に証明できないものを信じない。幽霊、超能力、輪廻転生、天国地獄・・。なので、起きた後でビックリすることが多々ある。① 大学受験失敗編。合格発表の日。落ちる胸さわぎなど微塵も感じず、なぜか 「付いていくよ」 と東京まで一緒に来てくれた彼氏。そこに私の受験番号はなかった。落胆するよりも、一緒に来た彼氏に気を遣う始末。胸さわぎを感じてくれたら一人で行ったのに・・。② 彼氏に振られる編。なぜかいつも振られて終わる私の交際遍歴。それはいつも突然。「別れよう」「は? 何で?」「前から考えてた」「いつからよ?」 ・・・胸さわぎでも感じていたなら、心構えができていたのだろうか? ③ 帰省中の母の事故編。日本を離れる数日前。実家でのんびりと優雅にゴロゴロ。電話が鳴り、出ると母親が「バイクで事故っちゃった。今、病院。相手の人が連れてきてくれた。数時間帰れないからね」という連絡が! 至急病院に駆けつける! 状況が分からないまま、事故の相手を「ふざけるな!」と怒鳴りつける! その日は小雨が降っていた。まるっきり胸さわぎなどとは無縁だった。最後に疑問。『胸さわぎ』があれば、人生を助けてくれるのか!? (IE) |
(2019年3月1日号に掲載)