July 2, 2025

失敗

 

▽私の初恋は7歳。小粋に着こなした柄の良いシャツ、端正に折り曲げた上着の袖口、都会的でスタイリッシュなベレー帽がチャームポイントという、ボーイッシュな魅力に溢れる少女だった。彼女宅の郵便箱の上にそっと “初恋文” を置いて (中に入れましょう!)、木陰から成り行きを見守る私。すると、手紙は一陣の秋風に吹き飛ばされ、優雅な弧を描きながら舞い落ちて、枯葉の中の「紙切れ」となった。そして、家から出てきたお婆さんに電光石火のごとく掃き捨てられてしまった。その絶妙なタイミングと手際の良さに呆然とし、この思いは通じないと確信。この失敗がトラウマになったのか、以来、私はラブレターというものを書いたことがない。
▽私が入学した私立高校は附属中学エスカレート組を合わせて首都圏出身者が約8割を占めていた。残り2割は私を含む地方出身者で、都会の事情に疎いばかりか、言葉の端々 (はしばし) に出る地方訛 (なま) りに気後れを感じていた。入学直後に有志が集まり、喫茶店で親睦会が開かれた。私には初めての喫茶店体験。皆がナポリタンやカレーピラフをオーダーする中、カツ丼を注文した私に 「ユーモアのセンスがスゴい!」 と一同大爆笑。これを機に人気急上昇。失敗転じて何とやら。本当にカツ丼を食べたかった私は、冷や汗をかいていた。 (SS)
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▽その昔、入社試験の面接で 「かぎょうは何でしょう」という質問に「カキクケコです」と元気よく答えた私。一瞬、微妙な空気が流れ、その後、面接官たちが大爆笑。入社後のあだ名は「カ行のヒト」となった。▽若かりし頃、初めてお茶会に参加した時のこと。茶席も終了し、しずしずと皆が退席する中、次は私の番!とおもむろに立ち上がったらドタンと倒れてしまった。あまりの緊張で、足がコンニャク化していることに気付かなかったのだ。寂を破って鳴り響いた爆笑の渦と緋毛氈のように赤くなった顔の火照りだけは今でも忘れられない。▽失敗からの立ち直りが、驚くほど早い同級生がいる。受験に失敗、留学挫折、バブル崩壊、会社倒産、離婚、台風による土砂災害、ビジネス拡大による不良債権など、いろいろな難局を、笑いながら乗り越えてきた彼が教えてくれたヒントは次の通り。気になっていることを紙に書き出す。どうなりたいかだけを考える。運動する。楽観的になる。プロに相談する。いつも自分の味方でいる。どっしりと構えた木でも、折れるときは意外とあっさりポキッと折れてしまう。「折れない強さ」より、失敗からよみがえる、彼のような「しなる力」を身に付けたいと思った。 (NS)
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「失敗は成功のもと」だと思う。失敗の経験がない人は、成功した時の嬉しさを感じられないかも。昔の私は料理が嫌いで、下手で、何を作ってもイマイチだった。インスタントラーメンさえ手際よく作れなかった。お金がなく、節約しないと生活できなかった貧乏学生時代は仕方なく自炊していたが、本当に不味かった! アメリカに来てから、デカいオーブンがあるので、オーブンに入れれば何とかなるということが分かり、少しは料理が “できる” ようになってきた。そして、日本と母国の台湾と違って、アメリカにはいろいろな人種がいるので、食材の豊かさもそれなりに凄い! そのせいかもしれないが、料理するのがそんなに苦手じゃなくなってきた。そして、コツを身に付けて食材を揃えれば、おいしい料理は結構簡単に作れることが何となく分かるようになった。今では毎日楽しくいろいろな料理を作って、キレイに盛り付けしている。今度は何に挑戦しようかなぁ〜と。 (S.C.C.N.)
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yoko
高校生のころ、趣味でお菓子をよく作っていたのだが、時々、夕飯も作っていた。母が誉め上手で、何を作っても「美味しい、美味しい」と喜んでくれたので、私も張り切って、レシピを見て材料を買いに行って、ご飯を作っていた。ある日、料理雑誌『オレンジページ』で、チキンクリームコロッケを見つけて、それを作ろうと思った。小麦粉をまぶした玉ねぎをバターで炒めて、ミルクを少しづつ足してホワイトソースを作る。ホワイトソースに炒めた鶏肉と缶のコーンを混ぜて、俵型に丸めるのだが、生地が柔らかすぎて手にベタベタくっついて、全くまとまらなかった。冷蔵庫で冷やし足りなかったようだ。グチャッとしたものになった。おまけに揚げるために油に入れると、爆発して、見るも無残なクリームコロッケ?ができた。半泣きになって 「もう二度とクリームコロッケなんて作らない!」と怒っている私の横で、母は「味は美味しいわよ」と言って食べてくれた。私が料理をするのが好きなのは、母のお陰もあるかも。 (YA)
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reiko-san
新型コロナウィルスの影響で、家にいる時間が圧倒的に増え、パン作りを始めた私。友達から自家製サワドースターターを分けてもらい、憧れのサワドーブレッドを自分で焼くようになった。何回か焼いていると材料の分量もなんとなく覚えて、計量も適当になっていく。ある時、いつものように生地を作って発酵させ、オーブンで焼き上げた。クープもしっかり入って、こんがりしっかり焼き目も付いたパンは今回も美味しそう。お腹をすかせて待っている娘に最初のスライスをあげた。意気揚々と食べ始めたものの、いつものように「美味しい」と言わず、静かに食べ続けている。「どう、美味しい?」と聞くと、「It’s a little bit saltier than usual…」と一言。えー? そう? と私も一口かじると・・・ギョエー「ちょっとしょっぱい」どころじゃないしょっぱさ! 慌てて、娘に食べるのをストップさせた。こんなの食べたら一気に高血圧になってしまう。なんで? なんで? いつもと同じように作ったはずなのに〜。一晩発酵させて、早起きして焼き上げたせっかくのパンなのに〜。しょっぱすぎるパンなんて食べられない。もう塩の入れすぎは明白なわけで。2 tea spoon の塩を、私は自信たっぷりに 2 table spoon 放り込んでいた。涙の大失敗! (RN)
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suzuko-san
失敗?そんなものは日常茶飯事。数えきれない、覚えきれない、いや、敢えて覚えておこうとはしないから、どんな大きな失敗をしたか、わざわざ考えなくてはいけない。一番に頭に浮かんだのは…。大学入試の際、答えを万年筆で記入しなくてはいけない学校があった。それは十分承知の上で、入試に臨んで万年筆を取り出した。「あっ、カートリッジがない!」。既に入試開始直前。広い構内、購買部がどこにあるか知る由もない。慌てた、慌てた、あの時は。最近の失敗は旅に関することが多い。まず宿の手配。パソコンに入力する際、慎重にやったつもりなのに、3か月先や来年の予約していた、ということが2回続いて、自分の愚かさ加減を嫌というほど味わう。せめてもの救いは、一人旅なので、誰にも迷惑が掛かっていない、ということだけど。またある時は…旅の半ばでクレジットカードを携帯していないことに気づいてからドキドキだったこと。幸い、現金は多めに用意していたし、カードの必要性が生じなかったから、結果的に事なきを得たのだが、これだけ旅慣れているのに、クレジットカードを忘れるか? あほんだら! 自分にがっかりすること、この上ない。私の失敗の原因は、要するに、常に 「詰めが甘い!」 こと。失敗は成功のもと? 誰が言った!! (Belle)
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jinnno-san
ちょうど1年前はイタリアとイスラエルの旅行中~! イタリアはボローニャ (ミートソース発祥の地) で、ボロネ-ゼ、トルッテリーニ エン ブロードを食べるのが目的~。朝・昼・晩と違うお店でトルッテリーニ三昧。これがどこも超美味! 最後の空港でも店を探したら、あった 笑。しかも、街の中にもある100年の歴史の有名店だから味にブレはないであろうと。が! 最後に大失敗! 笑。なーんで、こんなにしょっぱい?! 笑。イスラエルでは死海に行くのに失敗のないよう、念入りに下準備。虫除けスプレー、日焼け止め、死海に浮かびながら使える防水iPhone入れ、わざわざCoast Plazaで水着 (子供用 笑)を新調。以上 (え?コレ普通の準備じゃね?笑)。テルアビブではホテルのプールが海水で、海も真ん前。この海水がね、すでに塩分が高くて、お尻が浮くのよー。こんな風に浮くんだと予行練習。さあ、いよいよ死海へ! 友達は早速、海パンになり海へ向かう。さあ、あたいも!って思ったら、何かが足りない? 何?・・・なんと!水着もってない! 地球の裏あたりまで来て、死海に漬かれないのか! 笑! ヤケになったあたいは服で入っちゃった 笑。帰りはズブ濡れ&エアコンで寒!笑。準備って忘れるから関係ないね~ (そうくる?笑)。(りさ子と彩雲と那月と満星が姪)
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①『終電大失敗』 短大卒業後、東京の大学病院に就職した。実家から乗り換えを入れて50分ほどの通勤。仕事後の飲み会は、医師がおごってくれることが多く、それも、自分では絶対に行かないお店に連れていってくれる、贅沢極まりない飲み会は積極的に参加した。が、私は上野発最終下り電車11時41分発に乗らなければならない! 走って間に合い、疲れ果てて、酒の入っている私は電車の中で爆睡。で、気付くと自分の駅が過ぎている! 慌てて下車し、上りのホームへ走る! 遅かった! 上りの電車が終わってしまった! パニックに陥る。親に電話して迎えに来てもらう? けれど夜中だし…しょうがない、タクシーしかない! 深夜料金も含めて1万円超え!! 飲み代タダだったのに、大失敗 (涙)。②『洗濯機大失敗』うちの洗濯機はフロントロードで、水抜きをしなければならない。ある日のこと、水抜きのプラグを戻すのを忘れて、洗濯機を始動してしまったのだ! その場からすぐ立ち去ってしまった私、そこから水があふれ出てくるのに、しばらく気付かなかった。あれ?なんか廊下のカーペットが濡れてる。ランドリールームのドアを開けたら洪水になっていた!そこからは数時間以上かけての掃除。最悪。ちなみに①、②の失敗、数回繰り返してます (笑)。 (IE)

(2020年10月1日号に掲載)

故郷 ふるさと

▽阿武隈川の畔 (ほとり) に建つ福島の生家が道路拡張計画で取り壊されたのは四半世紀前。私が産声を上げた「離れ家」は公共駐車場の一部となり、コンクリートが敷き詰められて、寒々とした空間が広がっている。その界隈に並んでいた家屋・店舗も姿を消してしまい「故郷とはかくやあらん!」という情感が湧いてこない。心象風景が消失してしまえば「そこは故郷にあらず」と、つくづく思った。▽あまりにも鮮烈な故郷の記憶がある。 ① 5〜6歳の頃、家の周りで三輪車に乗って一人で遊んでいた。家の前を通る旧国道に “魔のT字路” があり、子供の私は大事故の瞬間を数回目撃している。母子が撥 (は) ねられた後、警察官に「坊やは見ていたね。その様子を話してくれる?」と尋ねられても、怖さのあまり、三輪車をキコキコと漕ぐばかり。キャラメルをもらっても、幼い目撃者は無言のままキコキコキコ。② 小学生の頃、故郷の同級生の親に不幸があれば、葬儀に出るのは学級委員。その役目を恨めしく思った。焼香の順番が巡ってきた女子学級委員。彼女は足がシビれてその場に転倒! 助け起こそうとした自分も同じ状態! 転倒する寸前に目に入った「物体」をつかんで体を支えたら、それは坊さんの頭。坊さんは驚いて振り返ったが、木魚は打ち続けていた。 (SS)
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▽私の故郷、福島県の会津柳津は日本有数の豪雪地帯で、昭和30年頃には積雪が数メートルにも達して、2階から出入りした記憶がある。子供たちはほっぺたを赤くしながら、ソリやかまくらで無邪気に遊んでいたが、半年間も毎日、雪かきや雪下ろしをする大人たちにとって、その生活は厳しい自然との闘いであったに違いない。▽故郷の深い山間 (やまあい) を縫うように走るJR只見線は、日本一紅葉が美しい路線として有名で、写真ファン憧れの鉄道になっているらしい。「これぞ日本の原風景! 秘境ローカル線沿いのノスタルジックな風景に感動! 只見川第一橋梁 (きょうりょう) には韓国人が大勢いたよ」と、友人がLINEを送ってきた。▽会津柳津では毎年、お盆の時期に「霊まつり流灯花火大会」がある。午後3時頃、お寺の本堂で大法要があり、その後、稚児たちが流灯を持って本堂から只見川まで歩く。夕闇が迫る頃、川辺にたくさんの流灯が流され、夜空に花火が打ち上げられる。「お迎えしたご先祖さまを再び送り出すんだよ」と言う祖母と一緒に、子供の頃、藁で作ったお供え物を乗せた精霊舟に手を合わせて一舟ずつ見送った。夏になると、線香の匂いに包まれた幻想的な故郷の町と、精霊舟に乗っているであろう、祖母、父、母、義姉を懐かしく思い出す。 (NS)
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アメリカに来てから、もう24年も経っている (自分もびっくり!!)。英語の発音や、見た目とは関係なく、市民権を持っている私は、いつも誇りを持って 「自分はアメリカ人だ」 と思っている。いろいろな問題があっても、この国には可能性がある。努力すれば夢を実現できる国だと私は思っている。日本に住んでいた20代の頃、よく母から 「台湾人なのに、考え方も生活習慣も日本人みたい」と言われていた。30代になると、母から「あなたはアメリカ人に変わった!」と言われた。気がついたら、自分はどんどん、言語、文化、慣習を吸収・習得できる人間になっていた。自分自身が好きになり、自分のことを尊敬できるようになり、自分の価値と大切さが分かるようになって、自分の生活に満足感を覚え、そしてハッピーでいられる。第1の故郷・台湾が恋しい。第2の故郷・日本も恋しい! けれど、第3の故郷になったアメリカは素晴らしい国だと思う。11月に最大のイベント、大統領選挙がある。国も国民も分裂しないように、平和でいられるように祈りたい!! (S.C.C.N.)
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yoko
私の故郷は、倉敷駅から車で5、6分ほどの酒津 (さかづ) というところだ。家から歩いて5分ぐらいのところに酒津公園という総合公園がある。酒津公園は、水遊びのできる浅い水門と水路、カモやアヒルが泳ぐ貯水池、遊具エリア、草花が摘める丘、ボール遊びに最適な芝生広場、遊歩道、無料の市民プールがあり、春になると園内に植えられた500本の桜が咲き、屋台も出て、お花見客で賑わう。私が幼児のころ、母は私を連れて、よく園内を散歩していたそうだ。小学生の頃は、仲良しだった従姉妹たちと、薄暗くなる夕方まで遊んだ。私たちの遊びは、つくし狩り、ダンボールで丘を滑る (シャツが枯れ草まみれになり、母に叱られた)、夏のプール遊び、水路で水遊びと小魚獲り、祖父に貯水池でボートに乗せてもらい、遊具で遊ぶなど、退屈することはなかった。中高生になるとあまり行くことはなくなったが、里帰りの際には、毎日、母と一緒に犬を連れて散歩した。写真を撮るのに素敵な場所がたくさんあるのに気がついた。小学生の子供たちの親になった今、近所にこのような公園があるといいなと思う。(YA)
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▽私の第一の故郷は6歳まで育った東京郊外の街。小さかったし、住んでいた期間もそれほど長くなかったけれど、いろいろなことを覚えている。毎日、青あざを作りながら練習して、やっと補助輪なしの自転車に乗れるようになったのもそこ。緩やかな長い下り道を、補助なし自転車で一気に下れた時の嬉しさはまだ覚えている。保育園のこともいろいろ覚えている。クリスマス会のケーキのロウソクの火が私の服の袖を焦がしたこと、サンタクロースに変装した園長先生が怖かったこと、お泊まり保育で夜なかなか寝付けず、保母さんを手こずらせたこと、etc。▽第二の故郷は小学校入学直前に引っ越した茨城県の田舎町。空き地、近くの森林、川で遊ぶ毎日が始まった。鶏、うさぎ、子豚、羊なども飼い始めた、田舎町とはいえ、普通の住宅街。両親の仕事も普通とちょっと違い、今から思うと、かなり浮いた家だったと思う。▽第三の故郷は2000年から暮らしているサンディエゴ。もう20年も住んでいるなんて、自分でもびっくりしてしまう。きれいな海もすぐ近くにあるし、まだまだ自然も多く残り、様々な人種、様々な文化をバックグラウンドに持つ人々が暮らすこの街が大好き。これからもずっとお世話になると思うこの故郷を大切にしたい。 (RN)
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suzuko-san
昔、昔のそのまた昔、私がまだ高校生で、生まれ故郷、福山にいた時のこと。『見上げてごらん夜の星を』という曲が大好きで、その曲が主題歌であった同名ミュージカルのLPレコードを購入。毎日、毎日聴いていた。その中に、記憶が正しければ、挿入歌の一つに越路吹雪が歌う「♪ふるさとは、いつでも帰る人を待っている。母親はいつでも帰る人を待っている♪」という歌詞の曲があった (題名は忘れた)。このお題をもらって、一番先に頭に浮かんだのがその曲、そしてわが故郷の母親である。4人兄弟姉妹の末っ子に生まれた私は、母親曰く「金魚のふん」。母親が行く先々へくっついていく甘えん坊だった (らしい。今の本人からは想像がつかないが)。夏の暑い夕方、彼女が家先に水を撒 (ま) き始めれば、私も撒きたくなって母親が持つホースを取り上げる。台所に行けば、その水撒きをさっさとやめて台所へ、という具合。今の言葉で言う「うざい」存在だった。そんな幼少時代も過ぎ、喧嘩ばかりしていた高校時代も過ぎ、18歳で故郷を後にし、東京へ。下宿先に故郷から届く段ボール箱の私の好物の袋菓子に、母の愛情をしみじみ感じ、涙したものだ。そんな母も、私が19歳、大学1年目で急逝した。母亡き故郷に帰る辛さ、寂しさが、しばらく続いたのは言うまでもない。(Belle)
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jinnno-san
旅行で何が一番楽しくって、濃い思い出を作れるかって言えば、、自分の地元はさておき、他人のふるさとを訪ねちゃうこと! 知らない土地でも、お友達の地元だからー Mi casa es Tu casa (私の家はあなたの家) 状態 (笑)。お友達も地元のカッコよさを見せたいから、歴史的なところからスタートね。遺跡やら、古い建物、それにまつわる話までしてくれて、遊ぶだけでなく、教育面バッチリよ。お話が分からないと恥ずかしいから、予習をしよう。観光客じゃなくて、ローカルの集まる酒場へ流れ込み(ご飯は?笑)、勿論、ローカルの集まる定食屋にも。友達のふるさとだけじゃなくって、地元の方のふるさとな訳だから、皆さんと速攻で馴染もう。聞き込み調査で美味しい地元料理も見つかるよ。わたしの中のベスト (他人の 笑) ふるさとはー! ③ ポルト (ポルトガル)! 友達が言ったとおり、歯のない爺さんたちが酒場で昼間っからワイン飲み続ける後ろ姿は、あたいのふるさとと呼びたい! 笑。② ナッシュビル (テネシー州)! 友達が言ったとおり、カントリーミュージックみんな聞いてるわ 笑。① 石垣島 (沖縄県)! 居酒屋の人が言ったとおり、毎日3回千べろを飲みにくるおじさん! 島中の人が具志堅用高さんの顔 (個人的感想ね 笑)。つまり、わたしは、どこでもふるさと満喫~! 笑! (りさ子と彩雲と那月と満星が姪)
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私の故郷は静岡県静岡市。静岡駅から車で約20分から30分ほどの海辺の町である。田舎ではあるけれど、市街地からそう遠くもなく、自然が豊かなうえ、交通の便も悪くない、生活しやすい所だと思っている。さらに、静岡駅から新幹線を利用すれば1時間で東京に着く。とはいえ、私にとっては「新幹線で東京へ行く」というのはなかなかの大イベントだ。まずは新幹線乗り場へ向かう。これが “遠くへ行く” という気分になる。そして、駅弁と好きな飲み物を購入して新幹線の車両へ乗り込む。大人になっても、新幹線で東京を目指す時のウキウキ感は変わらない。どうしてだろう。ほんの1時間の小旅行なのに、すごい所へ行く気分になる。子どもの頃からの記憶が、どこかに残っているせいだろうか。ニュージャージーからニューヨークのマンハッタンへ通勤していたこともあるのに、それよりも新幹線が楽しいのだ。今年の夏は新型コロナの関係で帰省できなかったが、来年こそ故郷の静岡へ帰って、また家族とどこかへ旅行に出かけたいと思う。新幹線に乗ってね…。 (SU)

(2020年9月16日号に掲載)

とりあえず

▽ 妻がジョギング中に転倒し、コンクリートに右頬を強打。みるみる腫れ上がり、ハロウィーンが前倒しで到来したような恐ろしい形相になった。外来診療が制限されているので、オンライン診断で患部の拡大写真を添付し、医師の判断を仰ぐ。顔面の骨折はなく、軽症の打撲との見立て (!)。異変があれば再診すると言われ、とりあえず、冷却して様子を見ることに。すると、驚くほど急速に腫れが引き始め、3日目には擦り傷が薄く残るだけで、ちょっと見では普通と変わらなくなった。「スゴい回復力だね」 と言うところを「サイボーグみたいだね」と口を滑らせてしまった。言い直したが反応なし。▽ 外出制限令が出た頃、私の髪は伸び放題だった。通販で 「ヘアトリマー」を購入したが上手く切れない。30年前に買った「簡易散髪機」(バキュームで頭髪を吸引してカット) は髪が痛いばかりか、轟音がガンガン響いて、キ —— ンキ —— ンと耳鳴りがする。「バリカンセット」は切れ味が良いが、加減を知らない妻に刈り込まれて、昔の野球部員のような頭にされてしまった。半年が経過。頭頂部は薄いまま、後頭部と側頭部は再びボサボサ。「お茶の水博士」か「アインシュタイン」かと妻は笑うが、その程度ならご愛嬌で、極限状態だと 「死神」 に近い。とりあえず、屋外に出ないようにしている。 (SS)
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▽「とりあえず、ってなんなんだよ!」と激怒した男性を見かけたのは、日本に里帰りした時に立ち寄った居酒屋でのこと。私たちが飲んでいたテーブルの横で忘年会をしていたグループがあり、すでに出来上がっている上司が、残業で遅くなった青年を一喝。「俺はなぁ、そのとりあえずってやつが嫌いなんだよ。お前は自分の仕事もとりあえずって感じで、テキトーにやってんじゃないのか」。かわいそうに、青年は飲み物の注文もさせてもらえずに、しばらく酔っ払いに説教をされていた。お酒は楽しく飲みたいもの。とりあえず絡み酒はやめて、カラカラになった青年の喉の乾きを潤してあげたかった。▽「とりあえず、1日1回の腕立て伏せから始めたのよ」と、最近ダイエットに成功した友人からLINEが届いた。10年間も運動不足だった彼女が、今では本格的な筋トレをこなすようになり、見違えるほどスリムになった。「分かっちゃいるけど、動けないのは、脳のせいだったのよ」と彼女。何でも、脳は生命維持のために、変化をきらい、現状を維持しようとするらしい。小さな変化で脳を騙して、とりあえずやってみることが大切とのこと。大事なのは、小さなことを続けること。質や量は習慣化してからでも遅くないのだ。三日坊主とおさらばできるかも。そんな希望が持てた、目からウロコの話題だった。 (NS)
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「何でもとりあえずやってみる!」 のが私。スタートしないと何も始まらないので —— 。今年の春、バックヤードが“雑草畑” になっているのを目の当たりにし、何とかキレイにしたいと思い、とりあえず、一番端っこから雑草抜き作業をスタート! 平日は仕事時間以外に毎日1時間くらい、週末は丸1日続けていたら、少しずつ雑草が消えていった。トータル3か月。やっとバックヤードが元に戻り、“普通” になった! とりあえずからの作業が、あんなに時間をかけて、最後まで頑張れた自分に拍手! そんな調子で、今度は夫がフェンスを作ろうと言うので、二人で塀作りを始めた。工具揃えから、デザイン、買い付け、色選び、塗装、木材のサイズ測り&カット、取り付け、ゲート作り、、、、。とりあえず自分たちでやってみようからスタートしたプロジェクト。汗ビショビショ、腕と足が痛くなり、1か月をかけて、立派なフェンスが出来上がった! よくやったねと自分たちに拍手! 根性があれば、とりあえず何でもできると私は信じている! (S.C.C.N.)
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今回のタイトルは「とりあえず」。何も思いつかないが、とりあえず書き始めた。本日は在宅勤務なので、家族みんなが揃っている。息子は時間があると、とりあえずレゴで遊び始める。たくさんのレゴを使って、自分で考えていろいろ作るので感心する。でも、リビングルームが小さいレゴピースだらけになるので、間違って踏むと痛い。片付けるのも大変。娘はとりあえず、いつでもホッパーボールでジャンプしている。狭い家の中で運動できていいのだが、寛ぎたいときに娘が周りでジャンプしていると落ち着けない。ジャンプしていないときは、タブレットを見ているか、絵を描いている。夫は時間があると、とりあえず寝転がってタブレットを見たり、テレビを見たり、音楽を聴いたりしている。夫にはもう少し動いてほしい。私は何かを作っていることが多い。パンだったり、お菓子だったり、ぬいぐるみやマスコットだったり、小物だったり、とりあえず何か作っているとリラックスできる。うちの家族はとりあえずこんな感じだ。 (YA)
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ここ数日、暑い日が続いている。娘も夏休みだし、夫も私も毎日時間があるので、家族3人で近くのベイにパドルボードをしに行くことが多い。スイムチームに入ってバリバリ泳いでいた娘は泳ぐのが得意。海で育った夫も潜ったり泳いだり、人魚のように水の中を自由自在に動き回る。かくいう私は泳ぐのは得意ではない。そして、海底までの深さが分からないところでは、いまだに少し緊張する。娘はSUP (Standup Paddleboard)、夫は14フィートの prone paddleboard、私は安定感バッチリの18フィートの prone paddleboard に乗って、一緒にベイの中をパドルする。ベイの真ん中で、夫と娘はボードから海の中にジャンプイン。潜ったり、泳いだりしてリラックスしている。私は、足の着かないところでボードに再び乗れるか不安なため、どんなことがあってもボードから落ちないように頑張っている。娘が盛んに「ママもジャンプインしてよ!」と誘ってくるが、今は断固拒否である。とりあえず、prone paddleを頑張って続けて、腕の筋力をしっかりつけて、ボードに簡単に乗り上がれるようになれるよう頑張りたい。 (RN)
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今でも鮮明に覚えている、あの感覚。結婚して、憧れていた主婦生活を決め込んだものの、如何せん退屈。これは何とかせねばと、2階の2部屋を使って民宿を始めることに。が、どうやってお客さんに来てもらうの? 幸いにも友達が、当時まだ皆が持つ時代でもなかったコンピューターを持っていたので、彼女のアイデアで「ジャパンネットワーク」に書き込んであげる、と民宿の情報を出してくれた。それがきっかけで、少しずつお客様に来てもらえるようになった5人目。長岡 (新潟県) からのお客様が私の宿のコンセプトを気に入って下さり「僕がホームページを作りましょう」と、申し出て下さった。パソコン時代でもない頃に、HPを作る技術を持つ人に出会えた私は超ラッキー。慌ててパソコンを買いに走り、手早にセットアップして、私のホームページで使うコメントの原稿や写真のやり取りがHPの作者と始まる。生まれて初めてEメールなるものを送った時の、まるで、その人が隣にいて「ねえ、ねえ」と話しかけているような、その親近感あふれる感覚がいつまでも記憶に残っている。以来、20数年。Eメールは、人との距離、時間だけでなく感覚も縮めてくれた。世界中どこにいても瞬時に話が通じる。こんな素晴らしい時代に生きられることに、まっこと感謝! (Belle)
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jinnno-san
最近、街が違って見えるのに気づいてます?(でしょ 笑?)駐車場をつぶして野外イベントに使うときみたいな、でかいテント張って、外でご飯食べてますよねー。駐車場がないレストランは、隣のお店までハミだして、パラソルとテーブル置いたり、もっと進化して、歩道を越えて道路に本格的な小屋? 笑、いや、お洒落なカーテン付きウッドデッキ?東屋?を建設し、床は板、絨毯、人工芝だったり、柵が木製パレットだったり、トラフィックコーンだったり、お洒落な植木だったり、、。ガスランプクオーターへ最近行きましたー? ほとんど毎日、五番街を閉鎖して歩行天にし、レストランが道路に店を連ねている、“夏祭りが毎日状態” の前代未聞の光景ですよ。ロサンゼルスの友達に「凄いんだよ、テントが!!」と言ったら「へー、綺麗なサンディエゴもロスのダウンタウンみたいに廃れたんだね」って。え?・・よくよく聞いたら、テントがズラっと並んでいるのを、テント村=ホームレスキャンプ、と思ったらしい 笑。ここはね、屋台っぽくなく、どちらかというとヨーロッパの風が吹いているのよ 笑 こんな経験はサンディエゴで二度と味わえないであろうと、、街全部がすでにビアガーデンに見えてるわたしは、喉がゴックンよ 笑。これは、もう、とりあえず、クィーーーーーでしょう 笑!! (りさ子と彩雲と那月と満星が姪)
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①『とりあえず、食事編』私は食べることに興味がない。短大時代、ツルんでる友達7、8人でランチに行こうと誘われる時に、私はいつもそれを断り、コンビニのあんぱんとお茶で一人食事。何故か? 明日には体から排出されるモノにお金を掛ける価値が見い出せなかったからだ。今でも、食事とはお腹が減ったから、とりあえず食べる、という行為で、食べる物には全くこだわらない。②『とりあえず、車編』私の父親は全く車に興味がないし、かなり運転が下手だ。なので、実家の車は傷だらけのボコボコ。一度、後ろのバンパーをぶつけてしまった時、とりあえず、凹みをトイレのスッポン (今の時代はオシャレにラバーカップと言うらしい) で、吸引修復を試したと母親から聞き、呆れて大笑いをした。が、この前、私がバックアップをする時に、コツンと当ててしまった。バンパーは凹まなかったが、小さな傷が付いてしまった。で、とりあえず、車と同色シャーピーで傷を塗ってみた。血は争えない。③『とりあえず、夫婦編』結婚23年。ようやく喧嘩する回数が減ってきた。若い頃は毎日のようにぶつかっていて、友達に相談すると 「とりあえず、謝っておけば収まるから」と言う。頭では分かっているが、未だにこの「とりあえず」は無理 (笑)。 (IE)

(2020年9月1日号に掲載)

メール/手紙/便り

総領事館経由で分厚い国際書留郵便が届いた。米国で三度の lawsuit を経験している私は、書留郵便 = 訴訟通知というイメージがあるので、嫌な予感がした。福島地裁からの民事訴訟関連書類。日本で裁判沙汰? それは土地問題に絡む “事件” だった (相続処理が済んでいるのに、何故?)。想定外の内容。話は昭和6年 (1931年) まで遡る。小地主だった曾祖父 (写真しか知らない) が▲さん宅の差押仮処分を申請したが、所有権移転の問題が浮上し、執行されずに約90年間、宙ぶらりんの状態が続いていたらしい。その家に住む4代目の▲さんが仮差押登記の抹消を申し立てた (実質的な債権・債務関係など現存しないのに、4世代目の▲さんは几帳面)。それには曽祖父の法定相続人 (私を含む生存する債権者) 全員の合意が必要。保全取消に異議があれば答弁書を提出し、裁判所出頭の義務が生じる。抹消に合意した私はコロナ禍中に帰国せずに済んだ。やれやれ。亡霊のように出現した曽祖父の生き様の断片。法定相続人18人の名前・住所一覧も含まれていた。幼い頃に遊んだ従弟妹たちは全員が存命。女は結婚していたり、離婚後に旧姓に戻ったり、外国で暮らしていたりと、人生の変化が滲み出ている。親族に思いを馳せる書留郵便だった。(SS)
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日本に里帰りしたとき、父の遺品の中から旧制会津中学49回生の同窓会の旧友に宛てた手紙のコピーを見つけた。「敗戦直前になってロシア軍と戦った我々は、シベリアで飢えと寒さに苦しんだ。そして、多くの戦友が異国の土と化した。復員後、食糧難とヤミ経済を体験し、所得倍増の掛け声のもと、豊かさを求めて夢中に走った。その結果が、高度成長とバブルの崩壊。我々自営業などは、蟷螂の斧 (とうろうのおの) を武器に大型店に立ち向かうことになった。気が付けば喜寿。いろいろなことがありました。人間機械は磨耗して、部品交換、部分切断は当たり前となっていますが、兎にも角にもいろいろ条件をクリアして、自分の足で同窓会に出席できるなどと云うことは、奇跡であり『神わざ』にも等しいことではないでしょうか。我々はみな、いつかは消えて行く身。同じ時代を生き抜いた戦友として、同窓会当日は心ゆくまで語り合いたいものです」。父は寡黙な人だった。毎年、終戦記念日の近くになると、さらに無口になった。もっとたくさん話をしたかったな~と、今頃になって思う。一期一会という言葉があるが、今日という一日、家族、仕事仲間、恩師、友人、知人、そんな奇跡的な出会いに感謝して、一緒の時代を過ごす喜びを大切にしたいと思うようになった。 (NS)
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手で覚えているのか、頭で覚えているのか分からないけど、最近、恐ろしいことに、タイプしないと漢字が書けなくなってきた!! 日本語の場合はローマ字入力でコンピューター、携帯などの電子機器を使い慣れているので、とりあえず打ち込みは問題ない(手書きだとちょっと自信がないかも)。母国語の中国語の場合は、ローマ字入力じゃなく、"拼音" (ピンイン) で入力=音節をラテン文字化して表記=しないといけないので、"拼音" が元々かなり苦手な私には、まったく中国語を打ち込むことができない(恥ずかしい>.<)。そのせいで、台湾にいる家族とのメール、テキストなどのやりとりは全て英語もしくは日本語で打ち込んた "日本語兼中国語" になる。昔の手書き時代と比べると、本当に便利な時代になってきたけど、手紙やカードを書いて送ったり、送ってもらったりの時代がちょっと恋しいかも・・。またいつか暇がある時、手紙でも書いて、家族や友人に送ってみようかなぁ〜。みんなビックリするかもしれないね(笑)。 (S.C.C.N.)
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yoko
Eメール、テキストメッセージ、IM、Line、チャットなどなど、どんどん便利になって、手書きの手紙、葉書というものを
使わなくなった。昔はいろんなレターセットやかわいいシールを集めていたのだが・・。中学生の頃に、仲が良かった子に薦められて、海外の人との文通を始めた。当時 「ペンパル」「ペンフレンド」といって海外文通が流行っていた。私のペンフレンドは、スウェーデン、エストニア、ルーマニア、韓国の子たち。一番長く続いたペンフレンドとは5〜6年文通をした。私の文通相手には、なぜか英語圏の人はいなかったので (アメリカ人にも送ったけど、返事が来なかった・・)、お互い、拙い英語でやりとりをしていた。クリスマスには、ちょっとしたものを小包で送り合った。私は日本らしい和小物や日本のお菓子などを送り、文通相手からは見たことがない文字が印刷されたキャンディやポストカード、繊細なレース編みが届いた。手紙を送ってから返事が来るまでの2〜3週間が待ち遠しかった。そして、遠い外国とやりとりをしている実感があった。便利な今だからこそ、手紙を見直してみるのも良いかもしれない。(YA)
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reiko-san
保育園でお世話になった先生との手紙のやり取りが、40年以上 (!) を経た今でもまだ続いている。私が子供の頃は、しょっちゅう先生に手紙を書いて送っていた。先生からはすぐに丁寧な返信が送られてきて嬉しかったのをよく覚えている。時が経つにつれ、年末年始の挨拶がてら、年に一度、お互いの近況を伝え合う程度になっているが、それでも、先生からの見慣れた優しい字体で書かれた手紙を読むと、ほんわりとあたたかな気持ちになる。もう70代になられているはずだが、まだ現役で保育の仕事をされていて、子供を取り巻く環境の変化を憂いながらも、愛情いっぱいに子供たちと接しておられる様子が手紙から伝わってくる。今年に入って頂いた手紙には、岩崎ちひろの描いた少女の絵が印刷された絵葉書が同封されていた。「子供の頃のあなたのイメージに重なるような気がするけど、どうかしら?」と一筆添えられていた。こんなに可憐な子供じゃなかったような気もするけれど、先生の優しい気持ちが嬉しかった。(RN)
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suzuko-san
今でも鮮明に覚えている、あの感覚。結婚して、憧れていた主婦生活を決め込んだものの、如何せん退屈。これは何とかせねばと、2階の2部屋を使って民宿を始めることに。が、どうやってお客さんに来てもらうの? 幸いにも友達が、当時まだ皆が持つ時代でもなかったコンピューターを持っていたので、彼女のアイデアで「ジャパンネットワーク」に書き込んであげる、と民宿の情報を出してくれた。それがきっかけで、少しずつお客様に来てもらえるようになった5人目。長岡 (新潟県) からのお客様が私の宿のコンセプトを気に入って下さり「僕がホームページを作りましょう」と、申し出て下さった。パソコン時代でもない頃に、HPを作る技術を持つ人に出会えた私は超ラッキー。慌ててパソコンを買いに走り、手早にセットアップして、私のホームページで使うコメントの原稿や写真のやり取りがHPの作者と始まる。生まれて初めてEメールなるものを送った時の、まるで、その人が隣にいて「ねえ、ねえ」と話しかけているような、その親近感あふれる感覚がいつまでも記憶に残っている。以来、20数年。Eメールは、人との距離、時間だけでなく感覚も縮めてくれた。世界中どこにいても瞬時に話が通じる。こんな素晴らしい時代に生きられることに、まっこと感謝! (Belle)
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jinnno-san
友達に、手紙、ホリデーカード、誕生日カードなどを一生分 (笑) 取っておいている人がいる。親からの手紙はもちろん、毎年来るであろう年賀状的なカードも、30年分くらい箱に保管してるって (笑)。「捨てないの?」 と聞くと 「え?捨てるの?」(笑)。わたしは受け取ると一旦は置いておくのだけど、、しまう場所がなくなっちゃうし、生活する面積が減るし、最終的には、手放す、と、毎年手作りカードをご丁寧に郵便で届けてくれている友達に (後から考えたら) 言いづらかった (ハズだろう 笑)、けど、普通にケロッと“捨ててるよ” (笑)。ポンポン捨てるのは母親譲り。基本ルールとして、人のものは捨てない。なので律儀なお母さんは、ここ数年前から実家に置いてあるわたしの私物をわざわざエアメールで送ってくる (笑)。幼い頃の工作品、小学校の校庭から掘り出したタイムカプセルの中にあった未来の自分への手紙、、もう絶対いらないし (笑)、毎年末に実家に帰るのだから、送っていらんくね? (ヒドイ娘 笑)。でも自分への手紙を読んで 「これ、傑作でしょ?」と感動し (笑)、 大切に保管してるわたしがいます (笑)。
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Eメールやテキストを使うようなって、徐々に手紙を書くことが減っていった。日本の家族とは毎日ラインでテキストしたり、直接話をしているし、友達や仕事関係もラインかEメールだ。その結果、どうせ郵便受けに入っているのは、請求書、広告、スーパーのチラシくらいだろうと、心当たりがある時以外は郵便受けを確認しなくなった。うっかりすると2週間ほど確認しないことも・・。怠けてチェックしていなかったため、去年のクリスマス頃に親類のおばさんが娘たちに送ってくれたクリスマスカードに、年が明けてから気づくというとんでもない失礼をしてしまった。日本から確認の電話が来て、家族にこっぴどく叱られた。当然だ。急いで受け取ったカードはとても可愛らしく、優しさのこもったクリスマスカードだった。やはり人が書いた字には温度や感情が感じられる。パソコンで打っただけの文字は、どんなに丁寧な言葉を選んでも、思いは伝わりにくい。時間をかけて心を込めてしたため、郵便局に足を運び、投函するという手間の掛かることも、相手がそうして、自分のために時間を割いてくれたと思えばこそ、大事に取っておこうとする。日々の忙しさに追われ、便利なツールに慣れてしまった今、忘れかけていた古き良き時代を、時々は足を止めて振り返るべきだと思った。(IE)

(2020年8月16日号に掲載)