Saturday, 07 September 2024

里帰り

 

それはサンディエゴから日本に里帰りした冬の出来事でした。凍てつく福島駅に降り立った私は、あまりの空腹に耐え切れず、和食にありつきたいと思っていたら、近くに開業したばかりの食事処を見つけた。目立つ看板に大きく宣伝していた「地元福島牛の牛すき鍋焼きうどん+ミニカツ丼セット」 を注文。鍋焼きうどんの温かさに至福を感じながら、ミニカツ丼をまさに食べ終えようとしたところ、ありゃ!? どんぶりの底から緑色の輪ゴムが出てきた! はてさて、この事実を店員さんに伝えるべきか、思案に明け暮れること数分間。私はほぼ完食しており、クレームするにはタイミングが悪すぎる。故郷の新店を応援したいし、注意を喚起するという目的で、お茶を注ぎにきた女店員さんに「これ、入ってました」 と、笑顔を浮かべて小声で伝えると、女店員さんは慌てて「少々お待ちください」 と厨房へ 。暫くして、店長さんの丁重なお詫びの言葉とともに、あろうことか、同じセットが運ばれてきたのだ! 「・・・」 。満腹の私にとって最大の問題は目の前の同じ料理。アメリカのように doggie bag を要求するのは粋じゃないし、食べないで帰るのも失礼と思い、厨房からの視線を感じつつ、自分に「がんばれ!」 と心の中で叱咤激励しながら、特別に出してくれたアイスクリームまで必死に平らげた。冬なのに冷や汗をかいていた。(SS)
blue_line932
▽両親が亡くなってから日本へ里帰りをすることが少なくなった。「Nちゃん、お帰り!!」という声をもう聞くことはできない。振り返ってみると、両親は私に「根拠のない自信」を与えてくれたように思う。「そうだったんだ」「スゴイね」「それはたいへんだ」と、仕事の手を休めずに、いつも耳を傾けてくれた。あの温かさと安心感は、その後の人生で「理由はないけれど、何となく上手くいくような気がする」という、無条件に自分を信じる力となった。母親が得意だった会津の郷土料理、そして、父親のユニークな方言が懐かしく思い出される。▽私の友人知人の多くは、在米歴が40年近くになる。そして、ここ数年は、円安の影響もあってか、老後は日本で過ごすと決めて、永久里帰りをする人が増えている。医療費、介護費、生活費、言語、食事などがその理由だ。確かに、日本では月15万円ほどの老人ホームの料金が、アメリカでは月5,000ドル〜9,500ドルにもなる。30年前は、日本から格安な介護施設を見学するために、多くの日本人がアメリカに来ていたのに、いつの間にか、逆転してしまった。駐在時代に過ごしたマレーシアに移住した知人もいる。余生をどこで過ごすか、情報収集に励んでいる今日この頃だ。(NS)
blue_line932
最後に里帰りしたのは娘が2歳の時。約8年前だ。幼児2人連れはとても無理。前々回に連れていた4歳の息子は夫と残り、娘と2人で帰った。実家が岡山なので乗り換えが大変。独身の頃は、SDからLAまで飛んで、LAから関西国際空港行きの便に乗り、そこから高速バスで実家へ帰っていた。でも、前回は2歳の娘連れ。その頃の娘はなかなか気難しくて神経質な幼児だった。長時間のフライトも心配だったが、その後の高速バス約4時間は考えられなかった。そこで、移動中に眠ってくれることを期待して、LAから真夜中に出発する便 (羽田行き) で帰ることにした。そして羽田から岡山まで約1時間のフライトを予約。大変だったのは待ち時間。午後LAに到着してから夜10時まで、長〜い待ち時間を持て余すことに。幼児用アプの入ったKindleタブレットはもちろん、ミニパズルや絵本、ちょっとした玩具、スナック、ジュースを大量に用意してLAXで時間を潰していた。フライト中はほとんど寝てくれて、とても良い子に過ごしてくれた。後部座席の人たちからも「騒がなくて、良い子だったね」と言ってもらえた。通路を挟んで座っていたアジア系の若い女性からは「喋る声がうるさい」と苦情を受けたけれど。。。今では、子供たちもすっかり大きくなった。今度は3人で里帰りしたい。 (YA)
blue_line932
suzuko-san
18歳で故郷を離れた。以降、学生時代は長期の休みが来るたびに、生地の福山へ里帰りを続けていた。大学1年が終わろうとしていた1月に母が亡くなってからは、姉の家事の手伝いで長期の休み期間だけでなく、金曜日の夜行に乗って、週末に実家で家事をして、日曜日の夜行で上京、その足で学校へ行く、ということも珍しくなかった。やがて兄が結婚させられ、姉が結婚し、実家の引っ越しと、次々と家の事情も変わり、私の里帰り先は移転した工場の隣にある兄夫婦の家になった。姉も会社を手伝っていた関係で家事が行き届かず、早くに結婚させられた兄嫁とはお互いによく知らないまま、勝手に?家族となった。その頃は私も会社勤めをしていたので、休みを取れるのは年に数日ほど。里帰りして居心地の良くない嫁がいる家より旅行だ!!と思い、故郷詣でをしない年が続いた。たまに休暇で帰っても「あ!料理上手な〇〇ちゃんが帰ってきた! これで私はラクができる!」と、私を持ち上げた上で家事を私に押し付け、自分はひっくり返って本を読んでいる。「なんという嫁だ!」と思うも、ここしか里帰りの場所がない私。そして里帰りしても特別な用事などない私は、家事でヒマつぶしをすることにそれほど異論はない。というワケで、私の里帰りの記憶は、家族団欒というよりも家事三昧。ちなみに、父の仕事は鍛冶関係だった。どうりで!(Belle)
blue_line932
jinnno-san
日本って本籍にお家がなくても、どこでもいいんだって知らなかった。わたしの本籍は名古屋市北区で、そこはお爺ちゃんの家だったけど、亡くなった後に土地を売ってしまった。それでも本籍は変わらない。なんでー? 笑。なのに、そこに帰ることはもうないのね (涙)。でも、実家は隣町の春日井市で帰るところはある (あるんじゃん 笑)。ただ、区画整理開始で、アスファルトの道路ができ、信号機が設置され、一軒もなかったコンビニやスーパーも出現 (田んぼと畦道しかなかった 笑)。なので、里に帰った気がせず、全く知らない土地に来た感じ。一番違和感を感じるのは、家の窓から人が歩いてたり車が通るのが見えること (笑)。前回もビックリしてお母さんに「今の誰?泥棒さん?」 と尋ねたり、隣の家が視界に入り (以前は遠くて見えず 笑)、そして庭に人がいたりすると、大声で話しちゃイケないようなヘンな気分 (分かります? 分かんないでしょーね 笑)。と言っても、歩いている人が見えるのは50メートルくらい先 (充分離れてるわ 笑)。このおかげで?意外なことを発見。お母さんがその50メートル先の道を通る人を家の中からよぉーく観察していて「奥村さん、今日も運動しているわ」「ほら、お父さんが伊藤さんと喋っているわ」。わたしはぜーんぜん、顔なんて見えない。お母さんの視力、鷲なみ(笑)。(りさ子と彩雲と那月と満星が姪)
blue_line932
毎年、子供が夏休みに入ると、静岡の実家に里帰りをする。2人の娘も、日本に行くのを毎年楽しみにしていて、航空チケットを予約したその日から、指折り数えて出発の日を待っている。早く日本に行きたいなー、何を持っていこうかなー、何を着て飛行機に乗ろうかなーと、出発日が近づくにつれ、ウキウキ度も高くなる。持っていく荷物の準備も少しずつ進めていく。去年から子供たちも自分で支度するようになったけれど、その風情が面白い。スーツケース半分くらいにどうでもいいものが入っている。次女の荷物の中身を確認すると、クマのプーさんとアザラシの縫いぐるみがスーツケースの2分の1を占めている。他には、スケッチブックや色鉛筆、iPad など。これで洋服と下着類は入るのか…。長女の荷物は、いつも勉強道具と本を詰め込むので、とても重い。姉妹でもこれだけ入れるものに違いがあるのが興味深い。子供たちに負けず、私も毎年の里帰りが楽しみだ。毎日のお弁当作りから解放され、朝もゆっくり寝ていられる。実家には姉2人と母がいるので、アメリカの日常とは違い、料理作りから食事の後片づけ、洗濯、掃除をしなくていい。夜に洗い物を忘れても、翌朝に誰かがしてくれる! そして自分ではなく、誰かがコーヒーを入れてくれる! こうして日本の家族に会い、心も体も充電して、またアメリカで頑張れるのだ。里帰り最高!(SU)

(2024年7月1日号に掲載)