2022年5月7日
5月3日に死去した日系の政治家ノーマン・ミネタ氏は、少年だった第二次大戦中、母国の米国に突然「敵」と呼ばれた。
差別の記憶を胸に刻みながら、人懐 (なつ) っこい笑顔と寛容さを失わず、正義と平等を擁護する闘いに生涯を捧げた。
経歴にいくつもの「初」が付く先駆者だった。
1971年、カリフォルニア州サンノゼ市長に当選し、米主要都市初のアジア系トップに。
本土選出で初の日系下院議員を経てクリントン政権、ブッシュ (子) 政権で商務長官や運輸長官を務め、アジア系初の閣僚として歴史に足跡を残した。
静岡出身の両親のもと、サンノゼで育った5人きょうだいの末っ子。
「私は凡人。成功できたのは両親ら日系1世や、米兵として戦った日系2世たちのおかげだ」と謙虚さや感謝を忘れなかった。
真珠湾攻撃後の1942年2月、ルーズベルト大統領が「大統領令9066号」に署名。
これを根拠に日系人が強制収容され、10歳から1年半をロサンゼルス郊外の施設やワイオミング州ハートマウンテンの収容所で過ごした。
宝物の野球バットを没収され、悔し涙をこぼした。
辛い体験をバネに日系人の名誉回復に取り組み、レーガン大統領 (当時) が1988年に署名し、米政府が強制収容を過ちと認めた「市民の自由法 (強制収容補償法)」につなげた。
1992年にブレイディ財務長官が日本人を「ジャップ」と蔑称で呼ぶと「愚かだ」と非難して謝罪させたこともある。
運輸長官だった2001年9月11日、米中枢同時テロが起きた。
反イスラム感情が広がり、「日系人強制収容のときと同じことが起きていると感じた」。
テロ2日後の閣議でブッシュ大統領が「ノーム (ミネタ氏の愛称) に1942年に起きたことを繰り返してはいけない」と発言。
「生涯忘れない言葉だ」と感慨深げに振り返っていた。
「未知のものを恐れるのが人間の本質だ。偏見は続く。若者には、自身の言語や信仰に誇りを持てと言いたい」。
取材のたびにこう話し、普段は柔和な眼差しが鋭さを帯びたのを思い出す。
米国で深まる分断に晩年も心を痛めた。
新型コロナウイルス流行に伴うアジア系住民への憎悪犯罪の多発を憂慮し「強制収容と同じ力学が社会を脅かしている」と訴えていた。
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◆ノーマン・ミネタ氏:
元米下院議員、日系初の米閣僚。
ミネタ氏の元補佐官によると5月3日、心臓病のため東部メリーランド州の自宅で死去。
享年90。
日系初の米閣僚としてクリントン政権下の2000~01年に商務長官、ブッシュ (子) 政権下の2001~06年に運輸長官を務めた。
1931年カリフォルニア州サンノゼ生まれ。
第ニ次大戦中、ワイオミング州のハートマウンテン強制収容所などで過ごした。
1953年カリフォルニア大バークリー校卒。
サンノゼ市議などを経て1971年アジア系初のサンノゼ市長。
1975~95年の民主党下院議員時代、強制収容された日系米国人に対する謝罪と補償を米政府に求め続け、1988年の「市民の自由法 (強制収容補償法)」の成立に尽力した。
2001年の米中枢同時テロ後に民間機の飛行が再開する際、運輸長官としてイスラム教徒らへの差別防止を呼びかけた。
2006年に米大統領自由勲章、2007年に旭日大綬章を受章。
Picture: © kyodo
(2022年6月1日号掲載)