July 8, 2025

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笑い

 

▽ 笑いとは ① オーソドックスな笑い、② ナンセンスな笑い、③ ブラックユーモア、④ 自嘲 —— の4種類に大別できそうな気がする。数年前まで、私たち夫婦が好んで観ていたTV番組にNHKの『ケータイ大喜利』 があった。視聴者から電話で寄せられる出題テーマの回答にナンセンスな笑いが炸裂していた人気番組。「行きたくないサファリパーク。その理由?・・1匹しかいない」。「評判の悪いバッティングセンター。その理由?・・敬遠してくる」。拍手!! 有りそうもない話に奇想天外な現実感を添えて深い笑いを誘う、理性が優位に立つ高度なテクニック。これらは “シュールギャグ” と呼ばれていたが、幻想や倒錯を直接的に表現するシュールとは異なる。作為的・人間的とも言える微妙な滑稽味が広がる “ナンセンスギャグ” だ。私たちは引退したら、知恵を絞って参加したいと考えていたが、15年間続いた番組は突然、2020年3月に終了。老後の楽しみが一つ消えてしまった。▽ストレス過多の現代は笑いとユーモアを「友」にしないと生きていけない。大袈裟に言えば、不幸・不運に遭遇しても、そこに意味を見つけて笑いに解していけば、残された人生に応えていけそうな気がする。それを態度に示すのは難しい。それでも、私たち夫婦のどちらかが臨終を迎えたとき、これまでの愉快な話をして笑って見送ることを約束している。(SS)
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▽私の母はよく笑う人だった。「笑っていいとも」や「笑点」などのテレビ番組が大好きで、笑うだけでなく、「惜しい!」「甘い!」とツッコミを入れながら楽しんでいた。まるでMCのように聞き手として笑いを取るタイプで、堅物の父も笑いながらそのツッコミを楽しんでいたように思う。▽「Sさん、男はね、笑ってくれる娘のほうがカワイイと思うんだよ。女性は、笑いを取りに行かない方がいい」。昔、東京でOLをしていたころ、会社の忘年会で部長に言われたことがある。母のDNAをしっかり受け継いだ私の「一発かましたれ精神」が打ち砕かれた瞬間だった。▽最近の研究によると、笑いに必要とされる「自己主張」や「支配」といった男性的な行動嗜癖を持つ女性は、社会的に冷遇されやすく、残念ながら「モテない」とされている。つまり、面白い女性はそのユーモアゆえに損をするという現実がある。▽幸い、今の旦那は私のツッコミを喜んでくれる人だ。自分が面白いと思ったことを一緒に笑ってくれる人がいると、本当に嬉しくなる。「ユーモアとは、〜にもかかわらず笑うこと」とはドイツの哲学者の言葉。辛いことや苦しいことがあっても、にもかかわらず笑うこと。自分の失敗を相手とともに笑い飛ばすこと。相手に対する思いやりとして笑うこと。できれば自分の臨終の時も、軽妙に笑いを飛ばしてみせたい。(NS)
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▽私の夫はよく笑う人。面白いことを見聞きしたり、考えついたりすると、私や娘に話したくて仕方ない。自前のジョークもよく飛び出す。私たちに教えてくれようと話し始めるのだけど、自分で笑い始めてしまってなかなか先に進まない——ということも珍しくない。笑いのツボにハマるともうダメだ。涙目になりながら大笑いしている。本題の話やジョークが面白かろうがつまらなかろうが、私たちは彼のその姿を見て、一緒に笑い始めてしまう。「腹を抱えて笑う」人って本当にいるんだと、夫と出会って知った (笑)。▽自分のことを笑われたと思って不機嫌になりかけた時に、「I’m not laughing AT you, I’m laughing WITH you.」と、慌てて言われたことってありませんか。「なんて都合の良い口実」だと余計に腹が立つこともあるけれど、気がつくと、私も時々、この表現を使っている (笑)。こちらには嘲笑するつもりは全くなくても、言われた人にとっては「馬鹿にされて笑われた」と思ってしまうことがあると思う。一緒に笑い合えるなら、お互いにこの上なくハッピーな気持ちになれるけど、一方的な笑いは人を傷つけることもある。自戒の念を込めて、気をつけようと思う。(RN)
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笑う門には福来る! そうです。よく芸能人の結婚会見で「どんな家庭にしたいですか?」 という記者からの質問に対して、「笑いの絶えない家庭を作りたい」と答える新婚カップルを目にするが、まさに、笑いは人間を幸せにする大事なツールだと思う。友達が私を誰かに紹介する時に 「この人、面白い人よ」とよく言われる。なんてことのない会話も、そこに僅かな笑いがあるだけで雰囲気が和むもの。私はくだらないダジャレや自虐ギャグ、オヤジギャグで会話に笑いを織り込むことが好きなのである。相手の笑いを誘うのに一銭もかからない。ちょっとしたバカなことを言ったり仕草をするだけで、その場が幸せになるのだから、これを使わない手はない。積極的にピエロになる。時々は「くだらない!」と呆れられることもあるが。例えばこんな会話…「私の人生の中で、一番生き生きと輝いていたのは三十路の頃だったわ」「そうなの?」「こういう時期を何と言うか、あなた知ってる?」「わからない」「手前みそ」。チャン、チャン! あぁ、くだらない! それでも相手はちょっとだけクスッとしてくれる。で、本人は大いに苦笑い! こんなどうでもいい言葉遊びで、私は「面白い人」という評価をもらえたりする。無料の言葉遊びで相手がニコッとする。なんて素敵なことでしょう!これからはもっと高尚、口承な言葉遊びで人を笑わせよう!  (Belle)
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わたしは相手の顔を覚えていないことが多い無礼者 笑。でも、今回の話はわたしのせいじゃない! 向こうの記憶が良すぎ! 笑! ある集会に出ていたら、後から男子1名が入ってきて、いきなり大勢の中にいるわたし?を指さして “I know YOU!!” と叫んで手を振ってきた。まず、わたしは反射的に振り向いた。次に360度見回して「誰に指さしてんだ?」という素振りをしたら、その男子はわたしにロックオン 笑。隣に座ってる友達のH部長に「ダレ?」と聞いても分からない。H部長もわたしが人の顔を覚えられないのを知ってる。「どっかで会ったっけ?」・・やがて、その男子が視界から消えたので「まぁ、いいか」と思いながらカクテルを飲んでいたら、背後より “Hi! My name is Kevin! I know YOU from Grossmont College” と、英会話の教科書のような自己紹介をしてきた! 笑。新手のナンパ? 笑 (自慢ですけど 笑 わたし まだナンパされていますので 笑)。「美術のクラス取ってたでしょ?」「ん?」「XX年にグロスモント通ってたでしょ?」すべて大正解・・・。げーーーえっ! なんでこの人、そんな昔の??? しかも、メチャ仲が良かった訳でもないクラスメートのこと覚えてんの!? わたしがクラスでウルさかったとか、目立っていたとかも、細か〜く話し出した 笑。この一件こそ、最近一番笑えた!  笑。(笑えることは毎日アリ 笑)。(りさ子と彩雲と那月と満星が姪)
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昔から笑いは健康長寿に効果があると聞いている。一日に10分〜15分ほど笑うのが理想的らしい。ストレス軽減や免疫力向上、血流改善、痛みの軽減、精神的健康の増進など、さまざまな効果があるという。これはもう笑うしかない。とはいえ、無理に笑うのではなく、自然体で笑える状況を増やすことが重要らしい。なるほど・・。長女はよく笑う。彼女から見れば私は全然笑わないという。私は笑っているつもりなのに・・。長女は時々、私をくすぐって笑わそうとするのだが、こそばゆいのが嫌いな私は、やられている間は笑うが、暫くすると怒りに変わっていく。はっきり言ってイラッとさせられて逆効果。言われてみれば、最近「アハハハ!」と声を出して笑った記憶がない。テレビを見て子供たちが大笑いしていても、私は「フッ!」と鼻息で笑う程度だったかも。そんな私でも、面白い時はお腹を抱えて大笑いすることはあるのだ。一番笑ったと思える記憶は、スーパーでの取りとめのない会話で「生姜無いの? しょうがないなぁ」と、私の口から無作為に飛び出した言葉だった。偶然とはいえ、姉に「ダジャレ?」と言われたのが笑いのツボにハマってしまい、しばし抱腹絶倒。もしかしたら、些細なくだらないことで笑えるタネは沢山あるのかも。これからも声を出して大いに笑い、健康維持に努めよう。(SU)

(2024年7月16日号に掲載)
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里帰り

 

それはサンディエゴから日本に里帰りした冬の出来事でした。凍てつく福島駅に降り立った私は、あまりの空腹に耐え切れず、和食にありつきたいと思っていたら、近くに開業したばかりの食事処を見つけた。目立つ看板に大きく宣伝していた「地元福島牛の牛すき鍋焼きうどん+ミニカツ丼セット」 を注文。鍋焼きうどんの温かさに至福を感じながら、ミニカツ丼をまさに食べ終えようとしたところ、ありゃ!? どんぶりの底から緑色の輪ゴムが出てきた! はてさて、この事実を店員さんに伝えるべきか、思案に明け暮れること数分間。私はほぼ完食しており、クレームするにはタイミングが悪すぎる。故郷の新店を応援したいし、注意を喚起するという目的で、お茶を注ぎにきた女店員さんに「これ、入ってました」 と、笑顔を浮かべて小声で伝えると、女店員さんは慌てて「少々お待ちください」 と厨房へ 。暫くして、店長さんの丁重なお詫びの言葉とともに、あろうことか、同じセットが運ばれてきたのだ! 「・・・」 。満腹の私にとって最大の問題は目の前の同じ料理。アメリカのように doggie bag を要求するのは粋じゃないし、食べないで帰るのも失礼と思い、厨房からの視線を感じつつ、自分に「がんばれ!」 と心の中で叱咤激励しながら、特別に出してくれたアイスクリームまで必死に平らげた。冬なのに冷や汗をかいていた。(SS)
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▽両親が亡くなってから日本へ里帰りをすることが少なくなった。「Nちゃん、お帰り!!」という声をもう聞くことはできない。振り返ってみると、両親は私に「根拠のない自信」を与えてくれたように思う。「そうだったんだ」「スゴイね」「それはたいへんだ」と、仕事の手を休めずに、いつも耳を傾けてくれた。あの温かさと安心感は、その後の人生で「理由はないけれど、何となく上手くいくような気がする」という、無条件に自分を信じる力となった。母親が得意だった会津の郷土料理、そして、父親のユニークな方言が懐かしく思い出される。▽私の友人知人の多くは、在米歴が40年近くになる。そして、ここ数年は、円安の影響もあってか、老後は日本で過ごすと決めて、永久里帰りをする人が増えている。医療費、介護費、生活費、言語、食事などがその理由だ。確かに、日本では月15万円ほどの老人ホームの料金が、アメリカでは月5,000ドル〜9,500ドルにもなる。30年前は、日本から格安な介護施設を見学するために、多くの日本人がアメリカに来ていたのに、いつの間にか、逆転してしまった。駐在時代に過ごしたマレーシアに移住した知人もいる。余生をどこで過ごすか、情報収集に励んでいる今日この頃だ。(NS)
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最後に里帰りしたのは娘が2歳の時。約8年前だ。幼児2人連れはとても無理。前々回に連れていた4歳の息子は夫と残り、娘と2人で帰った。実家が岡山なので乗り換えが大変。独身の頃は、SDからLAまで飛んで、LAから関西国際空港行きの便に乗り、そこから高速バスで実家へ帰っていた。でも、前回は2歳の娘連れ。その頃の娘はなかなか気難しくて神経質な幼児だった。長時間のフライトも心配だったが、その後の高速バス約4時間は考えられなかった。そこで、移動中に眠ってくれることを期待して、LAから真夜中に出発する便 (羽田行き) で帰ることにした。そして羽田から岡山まで約1時間のフライトを予約。大変だったのは待ち時間。午後LAに到着してから夜10時まで、長〜い待ち時間を持て余すことに。幼児用アプの入ったKindleタブレットはもちろん、ミニパズルや絵本、ちょっとした玩具、スナック、ジュースを大量に用意してLAXで時間を潰していた。フライト中はほとんど寝てくれて、とても良い子に過ごしてくれた。後部座席の人たちからも「騒がなくて、良い子だったね」と言ってもらえた。通路を挟んで座っていたアジア系の若い女性からは「喋る声がうるさい」と苦情を受けたけれど。。。今では、子供たちもすっかり大きくなった。今度は3人で里帰りしたい。 (YA)
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18歳で故郷を離れた。以降、学生時代は長期の休みが来るたびに、生地の福山へ里帰りを続けていた。大学1年が終わろうとしていた1月に母が亡くなってからは、姉の家事の手伝いで長期の休み期間だけでなく、金曜日の夜行に乗って、週末に実家で家事をして、日曜日の夜行で上京、その足で学校へ行く、ということも珍しくなかった。やがて兄が結婚させられ、姉が結婚し、実家の引っ越しと、次々と家の事情も変わり、私の里帰り先は移転した工場の隣にある兄夫婦の家になった。姉も会社を手伝っていた関係で家事が行き届かず、早くに結婚させられた兄嫁とはお互いによく知らないまま、勝手に?家族となった。その頃は私も会社勤めをしていたので、休みを取れるのは年に数日ほど。里帰りして居心地の良くない嫁がいる家より旅行だ!!と思い、故郷詣でをしない年が続いた。たまに休暇で帰っても「あ!料理上手な〇〇ちゃんが帰ってきた! これで私はラクができる!」と、私を持ち上げた上で家事を私に押し付け、自分はひっくり返って本を読んでいる。「なんという嫁だ!」と思うも、ここしか里帰りの場所がない私。そして里帰りしても特別な用事などない私は、家事でヒマつぶしをすることにそれほど異論はない。というワケで、私の里帰りの記憶は、家族団欒というよりも家事三昧。ちなみに、父の仕事は鍛冶関係だった。どうりで!(Belle)
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日本って本籍にお家がなくても、どこでもいいんだって知らなかった。わたしの本籍は名古屋市北区で、そこはお爺ちゃんの家だったけど、亡くなった後に土地を売ってしまった。それでも本籍は変わらない。なんでー? 笑。なのに、そこに帰ることはもうないのね (涙)。でも、実家は隣町の春日井市で帰るところはある (あるんじゃん 笑)。ただ、区画整理開始で、アスファルトの道路ができ、信号機が設置され、一軒もなかったコンビニやスーパーも出現 (田んぼと畦道しかなかった 笑)。なので、里に帰った気がせず、全く知らない土地に来た感じ。一番違和感を感じるのは、家の窓から人が歩いてたり車が通るのが見えること (笑)。前回もビックリしてお母さんに「今の誰?泥棒さん?」 と尋ねたり、隣の家が視界に入り (以前は遠くて見えず 笑)、そして庭に人がいたりすると、大声で話しちゃイケないようなヘンな気分 (分かります? 分かんないでしょーね 笑)。と言っても、歩いている人が見えるのは50メートルくらい先 (充分離れてるわ 笑)。このおかげで?意外なことを発見。お母さんがその50メートル先の道を通る人を家の中からよぉーく観察していて「奥村さん、今日も運動しているわ」「ほら、お父さんが伊藤さんと喋っているわ」。わたしはぜーんぜん、顔なんて見えない。お母さんの視力、鷲なみ(笑)。(りさ子と彩雲と那月と満星が姪)
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毎年、子供が夏休みに入ると、静岡の実家に里帰りをする。2人の娘も、日本に行くのを毎年楽しみにしていて、航空チケットを予約したその日から、指折り数えて出発の日を待っている。早く日本に行きたいなー、何を持っていこうかなー、何を着て飛行機に乗ろうかなーと、出発日が近づくにつれ、ウキウキ度も高くなる。持っていく荷物の準備も少しずつ進めていく。去年から子供たちも自分で支度するようになったけれど、その風情が面白い。スーツケース半分くらいにどうでもいいものが入っている。次女の荷物の中身を確認すると、クマのプーさんとアザラシの縫いぐるみがスーツケースの2分の1を占めている。他には、スケッチブックや色鉛筆、iPad など。これで洋服と下着類は入るのか…。長女の荷物は、いつも勉強道具と本を詰め込むので、とても重い。姉妹でもこれだけ入れるものに違いがあるのが興味深い。子供たちに負けず、私も毎年の里帰りが楽しみだ。毎日のお弁当作りから解放され、朝もゆっくり寝ていられる。実家には姉2人と母がいるので、アメリカの日常とは違い、料理作りから食事の後片づけ、洗濯、掃除をしなくていい。夜に洗い物を忘れても、翌朝に誰かがしてくれる! そして自分ではなく、誰かがコーヒーを入れてくれる! こうして日本の家族に会い、心も体も充電して、またアメリカで頑張れるのだ。里帰り最高!(SU)

(2024年7月1日号に掲載)
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夏休み

 

▽福島は夏が短いからか、小中学校の夏休み期間は7/21〜8/20の1か月。私は前半に宿題を終わらせ、後半は解放された時間として自由を満喫しようと思っていた。小学5年生の1学期に体験した十勝沖地震の影響もあり、自由研究のテーマを『地震』にしたが、これが裏目に出た。当時はインターネットなど存在せず、家庭用の百科事典からの情報も限られていた。私は父に連れられて仙台管区気象台へ向かい、地震のメカニズムについて教えてもらった。この年ばかりは宿題に想定外の時間を取られ、気象台へ3回も通うなど、夏休みのほとんどを自由研究に費やしてしまった。▽猫は外で何をしている? 親戚の男の子が『飼い猫の行動様式』を自由研究に選んだ。猫の目に世界はどう見える? 猫の首に小型カメラを装着して記録を始めた (現代の自由研究はIT化が進む)。まず、近くの藪の中で昼寝をした後、他人の家に立ち寄り、オヤツをもらっていた。しかも3軒ハシゴしている! 訪問を受けた人間たちは「あたしたちが好きなのね」と嬉しがっているが、平気で掛け持ちしている猫の方が一枚上手だ (笑)。画期的と思えた自由研究も2日目で頓挫。帰宅した猫の首には小型カメラがなかった。邪魔で自分で外したのか、自然に紛失したのか・・。いずれにしろ、猫は一筋縄ではいかない。それが夏休みに得た結論らしい。(SS)
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▽夏休みで思い出すのは、学生時代のワンゲルの夏合宿。「重い荷物担いで、何で、山なんかに登るん?わしは、金をもらってもやらん」という、松本行きの「あずさ」に乗っていたおっちゃんの言葉を思い出す。でも、今なら言える。「おっちゃん、その歩みは、人生そのものなんです。そして、寝食を共にした学友は素晴らしい。キラキラと輝いている」。卒業してから40年が経過した。いつか、ワンゲルの皆んなに会ってみたい。▽アメリカの夏休みは約3か月と長い。留学時代は、サマークラスをとったり、オンボロ車で安いモーテルに泊まりながらアメリカやカナダを旅行した。アメリカの子どもたちは、サマーキャンプに参加したりする。日本と違って、夏休みの宿題はない。いつもと違う出会いや体験が満載だ。夏休みをそれぞれの価値観で自由に生きるという発想は、大人になった時、大きなプラスになるような気がする。▽米農家、八百屋、マーケット、コンビニと業態はかわっても、実家はずっと自営業で忙しかったので、家族旅行というものをしたことがない。だから、巷でいうところの夏休みというものもなかった。キャッシャーをやったり、漬物をつけたり、帳簿を書いたりして、店を手伝っていた。東京で自活して、初めて夏休みというものをとって上高地に行った。これから私の新しい人生が始まると思った。(NS)
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夏休みといえば、島根の父の実家への帰省旅行。往路は寝台列車というのが定番だった。食堂車で車窓からの景色を眺めながらの夕食、狭い寝台スペースで列車に揺られながら寝るのが特別な感じで好きだった。父の実家は迷路のような作りで、それも大好きだった。ひなびた商店街に立地し、店舗兼住居の2階建てのその家は、土間の通路がずっと続き、家の中に入る戸口が複数あった。渡り廊下や階段がいくつかあって部屋数もかなりあった気がする(なにせ、子供時代の記憶なのでかなりあいまいだ)。極めつけは五右衛門風呂。夕刻になると、家に住む誰かが風呂焚きの準備にとりかかる。祖父母以外にも、父の兄家族とその他にもいつも誰か複数人いた。東京郊外の団地住まいだった私と弟は、火を使うこと自体めったになかったので、その準備が楽しくて仕方なかった。熱い鉄製の風呂釜に触れないように気を付けながら、おそるおそる湯舟につかるのもスリリングで楽しかった。朝、配達される瓶入りの牛乳が冷たく冷えていて美味しかった。書店と家電屋を営んでいたので、漫画や本は読み放題。好きな歌手のカセットテープももらえたり。お隣の菓子問屋さんに遊びに行けば、何列にも並んだ棚にぎっしり詰まったお菓子も自由に取り放題。子供にとっては天国のような場所だった(笑)(RN)
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♬VACATION(アルファベット読み) 楽しいな ギラギラと輝く太陽背に受けて 青い海泳ぎましょう 待ち遠しいのは夏休み…♬ 中学時代にアメリカンポップスに目覚めた私は、その頃の流行りであったアメリカンポップスのカバーバージョン、和製ポップスが音楽界を賑わわせていたのにつられて、この手の音楽を聴きまくっていた。コニー・フランシスが歌った上記の曲も、デビューしたての弘田三枝子がカバーして大ヒットさせていた。そんなワケで夏休みで思い出すのは、子供時代ならラジオ体操と海浜学校。宿題は夏休み前にほとんど終わらせているので、始業式前に宿題に追われた、という記憶はない。私は末っ子で母べったり。母に「あんたは金魚の糞だ」とよく言われていたが、母が行く先々に付いていって、母がしていることを私もやりたがり、母に疎ましがられていた。それが夏休みとなると、時間がたっぷり。ますます金魚の糞度が高まり、嫌がられること必至。例えば、暑い夏の日の夕方、母が道に水を撒き始めると、私も同じことを真似したくなり、母が持っているホースを奪う。奪われた母は台所へ。すると、すぐに私もホースを放ったらかして母の後を追う、という具合。台所で邪魔扱いされながらも、母が作る料理を見ることができたので、姉よりは料理上手になった。これも夏休みで金魚の糞度が上がったお蔭様である。ふん! (Belle)
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学校に関わっている人たちは“夏休み”が必ずあると思うのだけど、他の人たちは、自主的に夏休みを作っている(と思う)。自主的に作らない人は、夏休みが存在しない(笑)。わたしも学校に通ってたときは夏休みがあったけど、卒業したら夏休みは向こうからわざわざやって来ず、自分で作っている。日本はお盆休みが夏にあり、ちゃめちゃ祝日があって連休が多い。だから自主的に作らなくともあるっちゃある。米国はどうでしょう。真夏のど真ん中の6月7月8月に祝日や連休ありますか?一日もないわ(号泣)。あ、独立記念日があるじゃん!でも、それは木曜日、飛び石休日っている?(笑)。そこで、お休みが取りづらい人たちでも、週末を使ってステーケーション的な夏休みをクリエイトできるアイデアご紹介!サンディエゴは住んでいると気付かないかもだけど、立派な観光地・ビーチタウン。公共の公園やビーチでなんと!BBQができる(最近知った笑)。海の前で食べるキャンプしない日帰りだけど、キャンプ飯。結構というか、めちゃくちゃ気分がいいしうまい!近いから、毎週末行っても良いくらい。月に4回x3ヶ月=12回!こんなに数をこなせば、1週間キャンプにいった分くらい楽しくなる。もっと早くから知っていればよかった!というか今まで周り見ていた?(笑)。(りさ子と彩雲と那月と満星が姪)
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もうすぐミドルスクールに通う娘たちは夏休みに入る。アメリカの夏休みは長い。6月中旬から8月の終わりまで。おまけに大した宿題も出ない。私が小学・中学の頃は、だいたい7月中旬から8月31日までが夏休みで。漢字ドリルに計算ドリル、自由研究、読書感想文など、宿題も盛りだくさんだった。プラス、毎朝ラジオ体操に参加して、出席カードにスタンプを押してもらうという試練もあったな。毎年、今年こそ早めに宿題終わらせて、夏休みを楽しもうと意気込むのだが、だいたい3日ほどで挫折し、結局夏休みの終わりにヒ〜ヒ〜しながらやっとこさで宿題を終わらせていた。あれから数十年が過ぎ、今や私はおばさんになり、夏休みなど無関係だと言いたいところだが、実は今も子供に負けないくらい夏休みが好きだ。学校がないと朝早起きしてお弁当を作らなくていいし、夏休み中は日本に帰省して美味しいものを食べ、家族で温泉に行ったりとリラックスできるからだ。そして何よりも、実家にいる間は、毎日自分だけが家事をやらなくても良いということ。実家には母と2人の姉が同居しているので、食事や洗濯も気がついた人が適当にやっている。子供たちも姉の方へついて回るので、私は1人の時間ができ、自由を満喫できるのだ。ああ、考えていたらウキウキしてきた。早く来い来い夏休み〜。(SU)

(2024年6月16日号に掲載)
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記憶

 

▽大谷翔平選手の豪快すぎるスイングには、ボールを遠くへ飛ばすテクニックというより、巨獣を一刀両断に叩き斬る壮絶なパワーを感じてしまう。悠然とダイヤモンドを回る勇姿に、ギリシャ神話に登場する「巨大な伝説の生物」を思わずにはいられない。彼は球界のペガサスなのだろう。韓国では大谷翔平の成長物語を綴った漫画が大人気。考えてみると、私は少年時代に『巨人の星』の漫画を読んで人間心理の側面から野球に興味を抱いた記憶がある。今では、スーパースター『オオタニ』が最高の大舞台で燦然と輝き、後から教育マンガとして深く意味づけされている。少し「流れ」が違う。▽テニスのイン/アウト確認に精度99.9%のハイスピードカメラが大活躍 (元来は弾道ミサイル照準用)。来年からエレクトロニック・ラインジャッジ (電子判定技術) も導入される。MLBにも「チャレンジ制度」 (ビデオ判定要求) はあるが、判断を下すのは人間の目。アーマンド・ガララーガ投手 (タイガース) の「2010年幻の完全試合」 (最終打者の一塁ゴロを塁審が内野安打と誤審) はデジタル技術の前では起こらない。ヒューマンエラーで栄誉を逸したが、彼の名は歴代24人の完全試合投手よりも記憶に残り、その不運は情感に強く訴え続ける。むしろ、微妙な誤差こそが、スポーツを人間味のある競技に仕立てている? (SS)
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▽ハーバード大学の最近の研究によれば、「勉強後30時間以内」にしっかり寝ると記憶が強く定着するとのこと。脳は睡眠中に記憶を整理し、強化し、重要な情報を長期記憶として保存する作業をしているらしい。推奨される睡眠時間は、大人(18歳以上)は7〜9時間、青少年(14〜17歳)は 8〜10時間、学童(6〜13歳)は 9〜11時間。その昔「四当五落」という言葉があった。「4時間の睡眠なら合格するが、5時間も眠っているようでは合格できない」と先生が叫んでいた。でも、眠ることも勉強の一部。今は「八当五落」の時代かもしれない。▽「すっごく笑えるから、聞いて!」と、友人が森山良子の新曲 Ale Ale Ale のリンクを送ってきた。「♪ ああ あの時のあの Ano Ano Ano、あの人の名前がでてこない、ほらあの時会った あの人なの、もうわかってるのに思い出せない♪ほらあのとき食べた Ale Ale Ale、あの店の名前も出てこない、あなたと行った いえあなたじゃなかった、じゃあ だれ それは だあれ」。 確かに、年齢を重ねるたびに、記憶が薄らいでいく。あれよあれよと言う間に、あっという間に時は流れ、あんなに恋焦がれていた初恋の人の名前も出てこなくなってしまった自分に、呆然としている。。。。(NS)
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以前(12、13年前まで)は、記憶力には自信があった。子供の頃にトランプゲームの神経衰弱 (Memory Matching Game) が得意だった。学生時代には暗記が得意で、暗記をすればいい世界史や英語のテストの点は良かった(でも、漢字が苦手だったので日本史は苦手だったが...)。他にも周りの人が思い出せないことを当てることもできた。それが、年齢が行ったせいか、子育てや家事、仕事で毎日忙しいからか、物忘れが増えてきた。やろうと思っていたことを忘れたり、日用品の買い物で買い忘れることがあったり、娘に「こんなことあったよね」と言われた出来事を全く覚えていなかったりする。そこで『記憶力が落ちる原因』をGoogleで調べてみた。「記憶力の低下は、自然な老化現象。加齢に伴ってほぼ確実に起きる」と書かれていた(T-T)。さらに、「記憶したことを思い出すには集中力が必要で、複数のことを同時に行っている人は物事を忘れやすい傾向がある」ともあった。記憶力を高めるトレーニングを始めてみようかと思う。そういえば、昔、ニンテンドーDSで「脳トレ」やったな〜。 (YA)
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コロナ禍が収束してから、日本に帰る機会をより多く作っている。両親が他界してしまった身としての帰省先は、姉の嫁ぎ先。よって、姉と過ごす時間がここ数年、顕著に増加中。彼女との会話で、よく過去の話が出てくるが、私がまだ幼き頃、記憶の端にも残っていないような時代のことを、6歳違いの姉はよく覚えていて、私の欠点を始めとする、恥さらし的な話を旦那さんの前でよく話す。普段、エラそうにしている私の鬼の首でも取ったかのように。ムカつく! かく言う私も、人が持ち出されたくない事柄や話題など、本人が忘れていることはよく覚えていて、それらを暴露して嫌がられたりしているから、同じと言えば同じか・・。話は変わって、私は限られたお金を物質ではなく、記憶に残るものに使う方を好む。物を買い集めるより、そのお金を映画やショー、コンサートや旅行など、形に残らないものに使う。物に囲まれて暮らすより、世界のあちこちで人々と触れ合ったり、世界遺産などを訪ねたり、何げない村で出会った人たちと交流したり、その土地の美味しいものを頬張ったり。我が身の自由が失われかけた時、そういう記憶の中を自由に旅して余生を過ごす時間を「実の豊かさ」と心得ているから。この身が動くうちは、老後のために、せっせ、せっせと思い出づくり。初老人よ!! 書を捨てて街に出よう!!ってなものだ。(Belle)
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jinnno-san
ドライバーズライセンスのテストを受けたときのことを、よーく覚えてる。日本人の友達から「日本語の筆記試験もあるけど、日本語がヘンで分かりづらいから、英語が分からなくても英語で受けた方がいい」「日本で運転に慣れてる人が実地で落ちる」と聞いていた。実際に自分が受けてみて、その意味がわかった(笑)。同じ料金で普通車と自動二輪の試験が受けられる(なんでこんなにお得?笑)ということだったので、欲張って両方とも、意味の分からない英語で受けた(笑)。筆記はまぐれでパス。実地は、試験場に自分で車を持っていくのだけど、姉ちゃんに買ってもらったFord Escortのマニュアル車が試験中にエンストしてしまった(笑)。教官がブチ切れて、英語でブツブツ言いながら車から降りて去っていった(今思えば、その教官は歩いてDMVまで戻らなければならなかったのかもしれない)(というか、わたしも置き去り?笑)。自分がどうやって帰ったのか、記憶がない。はっきり覚えているのは、実地試験に落ちた理由が運転技術や交通ルールではなく、車のポンコツ性だったことだ(笑)。そして、DMVの駐車場に停めておいた車の窓ガラスが割られて、中が荒らされていたこともあった。これがアメリカだー!この最初の頃の記憶と経験があるから、エンストしても、ガラスが割られても、ちゃきちゃき対応できるのよ。自慢することではないが… (笑)。(りさ子と彩雲と那月と満星が姪)
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最近、次女に 「お母さんの一番古い記憶は何?」と聞かれた。どこで聞いたのか調べたのか知らないが、「人の記憶って4歳ごろから覚えているらしいよ」と教えてくれた。次女は、8年前に他界した私の父のお葬式を覚えているという。なるほど、当時まだ4歳だった。次女が2〜3歳ごろだったと思うが、カリフォルニアのディズニーランドによく連れていったことがあり、試しに、その時の記憶があるか聞いてみた。全く覚えていないという。何てこった…。運転も人混みも嫌いな私が、子供を楽しませようと連れていったのに、全く覚えていないとは。しかし、覚えていないなら仕方がない。私の一番古い記憶はというと、はっきりとは覚えていないが、昔から一場面だけの記憶がよく思い出される。縁側で哺乳瓶を両手に持って座っている私に、一口だけ飲ませてくれとしつこく頼んでくる姉の姿である。哺乳瓶を持っていたということは、まだミルクを飲んでいた頃、つまり1〜2歳くらいだったのかもしれない。もしくは、だいぶ大きくなっても(4歳とか5歳?)飲んでいたのかもしれない。しかし、一口ちょうだいと頼んできた姉は、今でも人が食べているものを一口ちょうだいと言ってくるので、私の記憶は間違っていないかもしれない。。。(SU)

(2024年6月1日号に掲載)