June 24, 2025

ゆうゆうインタビュー リオ・リヤウ

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アメリカに来られて、生活とビジネスの拠点に SD を選んだというのは。

理由は至極単純です…とにかく、サンディエゴは自然が素晴しい。自然愛好家の私には魅力十分。確かに、20年前のアメリカにはサンディエゴよりもビジネスの機会に恵まれた地域が他にありました。だけど、生活のクオリティーではサンディエゴの足許にも及びません。平和的な都市だし、当時は交通渋滞も無く、善良な人が多く、しかも LA や オレンジ郡に近いという地理的条件が気に入りました。


——異国での再出発は苦労されたと推察しますが。

フラストレーションに苛さいなまれた時期もありましたよ。でも、常に前向きにポジティブでいようと心掛けていましたね。私には既に日本での生活経験があったので事態の処し方には慣れていたのです。思えば、東京で暮らした5年間は自己救済の知恵となる多くのもの…言語だけでなく、思考方法や物事の見方…を学んだと思います。例えば、私の「保証人」さんには毎月の挨拶を欠かしてはいけないし、不義理をすると台湾の父親に連絡が行って、私自身が厄介な状況に置かれてしまう…とかね。今でも私は日本に太い人脈を持っています。


—— ファースト・ユナイテッド銀行を創設しようと思われたのは。

5_1.jpg移民としての自分の体験がそうさせたとも言えるでしょう。多くの皆さんも同じ経験をされていると思いますが、サンディエゴに移住した当時の私にはクレジット歴が無く、アメリカの主要銀行の上客ではありませんでした。相当額の預金を行っても最初からクレジットは良くならないし、私は腑に落ちない気持でいましたね。結局、主要銀行の規則と方法論は私のような人間 (移民) を対象にしていなかった。そんなフラストレーションから、当時の私のような立場にある人たち=知識や資産があり、アメリカの市場で活躍したいと意欲を燃やす人々=を専門に扱う金融ビジネスを私自身が始めることになったのです。

長年に渡ってビジネスマンの話を聞いているうちに、私のような境遇に置かれている人は珍しくなく、その多くが硬直した銀行システムに不満を抱いている実情を知りました。私達が創設した銀行の当時の名称は「サンディエゴ・ファースト銀行」。数年前にロサンゼルスに進出した際に「ファースト・ユナイテッド銀行」と改称しています。


——銀行システムの欠陥を補うことで、不利な状況を有利な立場に転化された。

その通りです! 「憂いの反面には喜びがある」 の諺にあやかりましてね。


—— サンディエゴ・ファースト銀行の創業はいつでしたか。

私を含む10人の共同出資で12年前に創業しました。当時、サンディエゴは発展途上にあり、移民数も急増してマイノリティーのコミュニティーが当地に根付き、ビジネス開業の動きが活発化した時期でした。でも、彼らが既存の銀行からビジネスや不動産購入の融資を受けるのは難しかったはず…。数百万ドルの価値がある人物でも、新移民にはクレジット歴 (TRW) が無いですからね。私達の銀行の設立目的は他行と一線を画し、限定された顧客層にサービスを提供することで存在価値を発揮できると考えていました。創業のタイミングとしては時宜に適っていたと思います。


—— ファースト・ユナイテッド銀行が普通の銀行と異なる点は。

銀行業務に関する法規制は一律なので、その意味では他行と同じです。でも、お客さんを理解するという努力の度合いと、私達が個人的に身に付けたアメリカでのビジネス経験という面では大きく異なります。また、私達は英語、中国語、日本語、スペイン語、韓国語、ベトナム語等を話すスタッフを揃えているので、言葉の障壁から解放されてビジネストークに専念できます。別の例を挙げましょう…日本または台湾の小企業が SD 進出を計画しているとする。この企業はティファナに工場や土地、それに従業員も確保しているかもしれない。でも、アメリカでの資産は少なく、ビジネス歴も乏しい。この場合、ほとんどの銀行は融資をしないでしょう…警戒してしまうのです。一般的に銀行は調査に時間を費やすのを嫌がるし、その手段さえも持ち合わせていません。私達は日本や台湾での企業情報を収集する能力とノウハウを備えているので、その会社の実態を把握することができます。この点が私達の強みの一つです。


—— 銀行業績を伸ばし、人々にサービスの内容を伝えてきた方法とは。

口伝えとコミュニティーへのコミットメントですね。私達は良き隣人として、皆さん一人一人のお役に立ち、コミュニティーに何かを還元したいという思いがとても強いものですから、SD地区のコミュニティー行事や祝典への参加は勿論、規模の大小に関わりなくイベント主催も手懸けてきました。更にその機会を利用して、ビジネス、経済事情、投資などの説明会の場を設けています。


—— ビジネスと経済の観点から SDの未来像をどう描いていますか。

5_2.jpgSD の成長は今後も続くでしょう。先ず、発展性を秘めた当地の重要産業…無線電信コミュニケーションとバイオテクノロジーの2分野…は SD のみならず世界全体への影響力を強めていくはずです。SD には住宅と産業開発用地が豊かに残されていますし、素晴しい気候と生活環境にも恵まれています。一度暮らしてみると、誰もが SD の魅力から逃れられなくなる。隣国メキシコの経済も国境エリアを中心に伸びています。多くの有力企業が SD に本社を移転したり、ティファナに生産工場を設ける動きが続いていますし、SD は将来の理想的なビジネス拠点として発展していくでしょうね。


—— 銀行創設に加えて、サンディエゴ台湾人商工会議所の設立にも尽力されたそうですが…。

サンディエゴ台湾商工会議所を設立したのは、私達の銀行がオープンする数年前。日本滞在時代にチームワークと組織体系の価値を学んだ私は、台湾人とビジネスを同会させる大規模な機関を SD に作る計画を進めていました。構想は膨らんで、その数年後には北米台湾人商工会議所が発足。更に進んで、世界規模の台湾人ビジネスマンの交流を図る世界台湾人商工会議所 (WTCC) が誕生するわけです。WTCC は台湾政府からも評価を受け、その歩みが注目されるようになり、私達も驚いてしまいました。考えてみれば、台湾人自身が組織したこのような機関は過去に無かったですからね…私達は政府に招かれて総統に会見する栄誉にも浴しました。その後も、台湾政府のほぼ全員の大臣の名前を覚えてしまうほど公式招待が続き、米国でも数多くの政治家に会う機会が与えられました。現在、私は会頭の立場にあり、WTTC は世界49か国で108支部が創設されています。次に台湾総統と会う時には「私の行動領域は総統よりも遥かに広いですよ」̶̶̶と言えるのを楽しみにしています。 (笑)


——これまでの経験の蓄積が、世界レベルでの展望を可能にしているのですね。

私が学んだ事は一つだけです。それは、誰でも社会に貢献できるということ。人は皆、多少なりとも個性が違いますし、中国文化、日本文化、アメリカ文化…それぞれに異なります。キーワードは「皆が手を取り合って働く」ということ…それが実行される時、より良い結果となって全員に還元されていきます。ある時は高い授業料を払わされるかもしれない。でも、その経験が未来への推進力となるのです。


——既に数多くの業績を残されていますが、その中で最も誇りに思えるのは。

全てでしょうか! 否、その答えは簡単だ…私の家族です。愛しい妻、2人の息子と娘…この素晴しいファミリーが私には全てなのです。クリスチャンの1人として、私達のコミュニティーに20年以上もお仕えできたという喜び…私は神に祝福されていると思います。感謝の念に堪えません。


リオ・リヤウ

現在、妻シンディさんと3人のお子さん (ジミーさん、ジョニーさん、ジェニーさん) と共にデルマーに在住。世界台湾人商工会議所会頭。サンディエゴ・ファースト銀行 (現ファースト・ユナイテッド銀行) 共同創業者。カリフォルニア州アジア経済開発委員会メンバー。他に、ワールド・ウェルネス・エンタープライズ社を含む数多くの商社、コンピュータ関連企業 に携わる。英語に加えて、日本語、中国語、台湾語、広東語を話す。

(2002年10月16日号に掲載)
 


ゆうゆうインタビュー キム・イルドン

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医師を目指そうとされたのは、いつ頃。

とても遅いんです。普通に敷かれた常識的な人生のレールを歩くというか、自分の生きる道を強制されたり押し付けられたりするのがとても嫌だったんです。在日韓国人3世の私は4人兄弟の長男として神戸に生まれ、父が祖父のゴム工場を継いで比較的豊かに暮らしていたのですが、中学の時に倒産し、私の家族の経済状態は一変してしまいました。高校入学後は何の目標もなく、毎日安部公房などの文学を始めとする読書漬けの生活。1日2~3冊読むこともザラでした。学校の勉強をする暇もないくらい本に没頭しているうちに、東大の安田講堂事件が起きたりと、社会が不安であったということも手伝って、ますます自分の方向性を見失い、とうとう高校を中退してしまったのです。それからというもの、大阪の釜が崎や東京の山谷で日雇い労働者として暮らしたり、ギターを持ってぶらりと与論島に行ったりと1年ほど放浪。でも、この間に得たものは大きく、社会のどん底で暮らす人達の心優しさに触れて、相互援助の精神を叩き込まれたような気がします。

たまたま日雇いで働きに行った早稲田大学で先輩とハチ合わせとなり、彼から諭されて「これじゃいかん」と思い直し、中退した高校に復学して結局5年かかって卒業しました。しかし、卒業後も人生の目標がまだ見出せない…。大学に進む気持にもなれず、陸送の運転手をしたり、外国人相手のマイクロバスの運転手をしたりしているうちに、人生についての悩みが増大するばかり…。この悩みから解放されたいと思い、臨床心理学の本を読み漁る日々が続きました。やがて、自分の悩みは勿論、人の悩みを解決するには精神科医になるのがいいのでは…との思いが私の中でふっと沸いてきて、「そうだ、医者を志そう!」と
。その時、既に24歳近くになっていました。


——難関な医学部の入試を、高校卒業から6年後に突破されたのですね。

高校卒業から4年後に東京から実家のある神戸に戻り、先ずは生活のために職業訓練学校に行き、給料をもらいながら簿記を習いました。その後は鶏肉配達のアルバイトをするなど、働きながら必死に受験勉強に取り組み始め、結局1年半の準備で岡山大学医学部に入学できました。何しろ、受験勉強というプロセスをスキップしてきているのですから、母校に行って教科書を分けてもらうのが受験準備の第1歩。睡眠時間を削って一から勉強という形ですよ。合格した時は、さすがに嬉しかったですね。


—— アメリカに渡る機縁となったのは。

6_1.jpg元々、世界で活躍したいという夢があったのと、世界で通用する医師になりたいと気持ちがあったからです。そのためにはアメリカで臨床研修するのがいいのではないか̶̶̶と考えるようになりました。一般教養課程を終える頃、当初目指した精神科ではなく、広い範囲の病気を扱える医師になりたいと志望を変えました。そして、将来のアメリカ臨床研修の下準備としてアメリカの大学で1年間生物学を学びたいと計画を立て、大学に休学届けを提出したのですが、TOEFLの書類の手違いで行くべき大学に入れず、仕方なくすぐに受け入れてもらえるアダルトスクールを見つけて渡米しました。渡米後、資格を取得して学費の足しにしようと指圧学校に通ったりもしましたが、結局、1年弱で日本に戻り、ヨーロッパを数か月放浪して、2年後には岡山大学に復学しました。大学に戻ってから、ヨーロッパ旅行で知り合ったチェコ女性と学生結婚。結局、医学部を卒業するのに8年を要しました。その後、横須賀米海軍病院でインターン、宇治徳州会病院でローテーション研修をした後、東京広尾にあるナショナル・メディカル・クリニックで外人 (主にアメリカ人) 相手のファミリー・ドクターとして3年勤務。日本で英語が話せる医師が少なかったことから大いに感謝され、自分の存在価値をやっと見出したかのように思えたのですが…。

常に何かにチャレンジしている状態に自分の身を置きたいんでしょうか。以前からの願望だったアメリカでの臨床研修を果たしたい。この思いがとても強くなり再渡米したのです。臨床研修までの期間を利用してコロンビア大学公衛生大学院修士課程に入学しましたが、一学期終了後に発生したあの忌まわしい阪神淡路島大震災̶̶̶。実家が神戸でしたので慌てて帰国。大学院を休学して暫く日本に滞在していましたが、コネチカットの病院から面接の通知が届き、アメリカに急遽戻ってきました。結局、1995年6月にエール大プログラム・ブリッジポート病院の内科小児科合併研修を開始し、予定通り4年で研修を終了。プログラム数が少なく、その存在自体が余り知られていない内科小児科合併研修ですが、その後、無事に内科小児科両方の専門医試験に合格することができました。


——身を削り、寝る間を惜しんでの医師人生への選択。そこまで金先生を駆り立てたものとは…。

日本で医者をしていれば、それなりに稼げて、普通の暮らしも可能だったでしょう。でも、アメリカで臨床研修をして、アメリカの医療の一端でもいいから触れてみたいという思いが強かったんです。日本の医療制度には国民皆保険など優れた点も多く、優秀な医者も大勢いますが、医師間での診療レベルのばらつきがアメリカより大きいように思えます。また、同じ病気で大きな病院に行くのと町医者にかかるのとでは、治療方法も大きく異なることがあります。その上、スタンダードの治療法より「私の治療法」が優先される傾向が強いのではないかと思います。その点、アメリカは卒後教育、いわゆる研修医制度がきちんと整備されていて、一つの病気に対する治療の基本的なマニュアルが整備されています。その上、全体的に医師のレベル、モラルが高い。バランスが保たれているんです。ですから、どの病院で、どの医師にかかろうと、一定レベル以上の治療を受けることができるという素晴らしいシステムがアメリカにはあるのです。

日本では、患者さんの話をゆっくり聞いてあげる暇がないほど忙しい (最近はアメリカでも同じですが…)。同じ症状でも、その原因や症状の度合いは患者さんによって千差万別です。患者さんの話をじっくり聞いてあげることも包括治療の一つであるはずです。特に、外国で暮らす日本人には医学専門用語も難しくて、医師に症状を明確に説明するのも一苦労です。「アメリカに来てまで、日本人を診ることもないか…」という考えが一瞬頭の中をよぎったこともありましたが、それは全く逆であることにすぐに気が付きました。ネイティブスピーカーとして細かいニュアンスの分かる日本語ができるからこそ、医師としての私がより必要とされ、存在価値があるのだと̶̶̶。

アメリカでの臨床研修を終了し、勤務病院を探していた折、日本クリニック・グループ CEO の周英世先生から「スクリプス・クリニックと一緒に日本人向けのクリニックを開設する予定がある」と聞きました。その後スクリプス・クリニックから正式の要請が来ましたので、私は内科と小児科だけでなく、日本での2年半のローテーション研修時に救急医療のほか、一般外科、産婦人科、整形外科、皮膚科、脳外科等全科の研修経験がありますので、全科プライマリケア (初期診療) もできる絶好の機会だと思い、サンディエゴに引っ越してきたと言うわけです。



—— 今までの医師人生の中で、一番自分を誉めてあげたいことは。

6_2.jpg私の尊敬する人物の一人に元・東大物療内科講師の高橋晄正 (たかはし・こうせい) 先生がおられます。統計学を使った科学的メスを医療の世界に持ち込んだ先駆的精神には大いに学ぶところがありました。高橋先生に出会ったおかげで、ライフワークとして疫学・統計を利用した研究をしようという気になりましたから。また、自分の反骨精神にどこまでも忠実になるということも先生から学んだことでした。岡山大医学部の受験勉強時代、宇治徳州会ローテーション研修医の頃など、自分の人生の中で本当に寝食を忘れるほど多忙で苦しい期間を乗り切れたのは、遠回りをした人生で培われた気力と持ち前の反骨精神だと思います。一番自分を誉めてやりたいと思うのは、アメリカの内科と小児科、二つの専門医認定試験に合格したことです。また、アメリカで臨床研修を行うために必要なアメリカの医師国家試験も難しく、以前に日本の厚生省が募集した米国家庭医研修では、日本人応募者100人中合格者が2人だけという結果でした。これで随分と自分にも自信がつきました。日本語ができる医師というだけでなく、人間味があり、有能でレベルの高い医師になりたいと常に思っています。


—— 遅くなりましたが、全米4番目の日本クリニック院長にご就任、おめでとうございます。

有り難うございます。サンディエゴの皆様のお役に少しでも立てることに私も大きな喜びを感じます。しかし、決してこれがゴールではなく、まだまだ医師としての勉強や研究は果てしなく続くわけで、現在、SDSU大学院で疫学を勉強しています。また、アメリカの卒後教育の優れた点を導入して、日本の医療スタンダードの改善に繋がる「架け橋役」の一端が担えればと、日本の医師たちと連携を保ったり、私のクリニックでの外来研修を提供しています。これは他の日本クリニックも同様で、今後日本人医師のアメリカでの研修の助成ができればと、周先生を中心に日本クリニック・グループとして計画をしています。同時に、全米におられる日本人の方々の便宜をより図るべく、優秀な医師が働く日本クリニック増設に向けての活動も行なっています。外国で病気になるだけでも不安です。せめて、言葉の不便さだけでも取り除いてあげて、患者さんに安心して治療を受けて頂いて全快されるなら、これは医師冥利に尽きることです。 


キム・イルドン (金 一東) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1952年12月19日、神戸生まれ。1987年岡山大学医学部卒業後、同大学院医学研究科衛生学教室博士課程入学。横須賀米海軍病院でインターン、宇治 徳州会病院でローテーション研修。東京広尾のナショナル・メディカルクリニック勤務後、渡米。コロンビア大学公衆衛生大学院修士課程入学。阪神・淡路大震 災のため一時日本帰国の後、エール大学プログラム・ブリッジポート病院で4年間にわたり内科・小児科合併研修を終了。米国内科専門医及び小児科専門医試験 に合格。1999年11月スクリプス・クリニック附属日本クリニック勤務の後、2002年3月日本クリニック・サンディエゴ院長に就任。現在、カーメルバ レーでチェコ人のイバ夫人と長女 アイナさん (14)、次女アイビさん (12) の家族4人暮らし。


(2002年11月16日号に掲載)

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ゆうゆうインタビュー ドナルド・G・リンドバーグ

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地球上の人々がパンダに愛着を感じていますが、この動物の魅力とは。

パンダは聖霊的な動物といいますか、他の哺乳動物には無い、人間の魂を鼓舞するカリスマ的魅力がありますね。あの不器用な動作と悪いたずら戯っぽさを見ていると、ヨチヨチ歩きの人間の幼児を思い出させますね。赤ちゃんの行動とまるで同じでしょう。木の上から転げ落ちたパンダが起き上がって、もう一度登ろうとする姿を見ているとね…。外見も独特ですが、大型の丸い頭と耳にも注目して下さい。動物行動学では「リリーサー」と呼んでいますが、この部分に感情表現を司る機能らしきものが備わっているんです。小柄でやんちゃなフア=メイ (人工授精で1999年にサンディエゴ動物園で誕生) は可愛さがあって皆の人気者でした。個人的にパンダに関心を示さなかった学者がいましたが、最初は冷淡だったのに、フア=メイと接触する時間を重ねるにつれて態度が変化していきましたね。最後には目を潤ませて、彼が私に言うんです。「こんなに感動を受けるとは想像していなかった。パンダと出会う多くの人間が同じ思いをしているんだろうね」
と。


——SD 動物園と聞くと誰もがパンダを思い浮かべますが、この魅惑的な動物を受け入れるまでの経緯は。

サンディエゴ動物園でパンダを飼育する計画が提案されたのは1950年代、あるいはそれ以前かもしれません。実際に中国に代表団を派遣してパンダ貸与契約の交渉を開始したのが1979年。中国政府が2頭のジャイアントパンダをサンディエゴに送る用意があるとの通知が届いたのが ’80年代後半で、最終的にバイ=ユンとシー=シーが到着したのは1996年9月10日のことでした。この背景にはアメリカ政府による商業活動としての動物輸入等を規制する動きがあり、動物園が中国からパンダを招くのは商業目的と解釈されて政府から保留を受けていたのです。海外からの動物の借り入れは予想外に困難を極めてしまい、私達の当初のパンダ飼育計画は拒絶されました。


—— パンダ計画実現に向けて、対策を立て直したのですか。

7_2-1.jpg新しい計画書を作成して提出したのです。今度はパンダのコミュニケーション機能の研究が目的という、学術的な内容でした。私が直接的に計画に関わった頃であり、動物行動学のスペシャリストとして、自分が中国に赴いてパンダの行動様式と生息環境を観察すれば比較研究が可能になる̶̶̶と主任を説得しました。パンダのコミュニケーション能力は行動パターンに繋がっているし、動物行動部門のヘッドの立場にいた私には使命感が漲みなぎっていました。とはいえ、この計画に身を投じる覚悟はあっても、パンダへの情熱が最後まで続くだろうか̶̶̶、この研究は最大限に報われるだろうか̶̶̶という自問には答えられず、展望については五里霧中でしたね。新計画では、サンディエゴにおける研究と中国での関連研究が野生パンダ生息数の維持に寄与すると強調しました。計画書提出から暫くの間は沙汰もなく、飼い殺しの状態に置かれていましたが、中国政府の合意を取り付けていたことから、1994年にアメリカ政府からやっと輸入許可が出たのです。図らずも、私達への認可プロセスが政府の動物輸入の可否を決定する基準になり、後に続くケースに適用されることになりました。


——パンダという“新しい住人”を迎え入れる準備は大変でしたね。

興味深いことに、最初の許可申請の時点でサンディエゴ動物園では8頭のパンダが生活できる公開展示場が既に完成していました。ですから、私達が書類手続を終了し、認可されるまでの約4年間は“住人不在”のまま放置されていたのです。


—— SD のパンダについて、もう少し話して頂けますか。

先ず、パンダ貸与契約の一部として、中国四川省のウォーロン (臥龍)・センターから2頭のジャイアントパンダを迎えることになりました。雄のシー=シーと雌のバイ=ユンです。シー=シーは中国での野生時代に瀕死の重傷を負い、危うく救出されて数年間に渡り人間の保護を受けていました。バイ=ユンは誕生時から飼育の環境下で育っていて、ウォーロン・センターで初めて生まれた雌パンダです。それだけに、彼女を SD に送り出す際に関係者は惜別の念が強かったそうです。そして万人に愛されている子パンダのフア=メイ (雌)…当動物園産のこの子は、過去10年間に北米で誕生して4日以上生存している最初のパンダ。性格の違いを見ると、老齢を重ねたシー=シーは消極的なのに、バイ=ユン-フア=メイ母子は実に活発で積極的。相手や事物を素早く認識して友好的な反応を示します。数年前の話ですが、飼育員が柵の外側から周囲を走り回ると、それを見ていたバイ=ユンが内側から彼女と一緒に並走しようとしたのです。(笑) 眺めていて本当に面白かった。


—— パンダ同士のコミュニケーションの方法は。

パンダは群生しない動物なのでコミュニケーションには嗅覚が重要な働きをします。自分が生きる環境下で臭痕を付ける、いわゆるマーキングを行い、数週間から数か月に渡って他のパンダとメッセージを交換します。シー=シーは老齢化が進んで相手に反応を示さず、マーキングをほとんど行いません。バイ=ユンとの関係でも、彼女が積極的にシー=シーの気を引こうとしているのに、彼は最初からバイ=ユンに関心を示しませんでした。バイ=ユンは対照的に外向的で相手とは頻繁に影響し合います。また、雄と雌の臭痕の利用法は異なり、雄は自分の生活エリアを確定する目的で行い、雌は雄からの求愛を受ける指標にする場合が多いのです。雄の雌への反応も様々ですが、中には木の上で逆立ちをしてお尻を高々と上げたりします。雌は高いお尻の雄を好んでいるように思えますが、その理由とは…? 多分、お尻の位置が高ければその雄の身体も大きく、雌が好む対象なのでしょう。フア=メイでさえも機能が十分に発達していない頃からぎこちなくマーキングを試みていましたね。 「ママがしているのだから、私だって!」 という思いだったのかも…。


—— 唸り声や特殊な音を出してコミュニケーションを試みることは。

7_1.jpg日本を離れる前、聖心の教職員の間で夏のアメリカでの短期旅行/留学プログラム開設のアイデアが出ていました。帰米してすぐに聖心女子大学のシスターの1人から電話が入り、サンディエゴ大学 (USD) との提携の可能性を打診してきたので、私は協力の意向を表明し、USDに働きかけたのです。日本から第1陣の交換留学生が到着したのはその翌年だったでしょうか。私は若い人ほど留学体験は意味を持つとの思いから、大学1年生を中心に募集しようと思いました。私の妹マリー・マックヒューも私と同様に日本への思慕が強く、夏になるとサンフランシスコからサンディエゴに飛んできて、交換留学生プログラムに貢献してくれました。その妹が聖心女子大で教えることになり、私が引退した後、妹から 「ポジションに空きがあるよ。意欲はある?」 との連絡が入り、再び教壇に立つ運びとなりました。


—— 動作や仕草によるコミュニケーションはどうでしょう。例えば、幸せな時などは。

そんな時、パンダは転げ回るのが好きなんです。中国に行った時、満1歳の子どもパンダのグループを観察していたのですが、彼らは無邪気に遊び回る人間の子どもと同じでしたね。ふざけながら互いに押し合い、その度に後ろに転んだかと思うと、今度は飛び掛かって軽く耳を噛み合う応酬が始まるのです。


—— フア=メイの誕生はセンセーションを巻き起こしました。この“小さな名士”の登場の意義は。

もう彼女は子どもではありません。生まれた時の体重は僅かに1/4パウンドで、母親のバイ=ユンのサイズはフア=メイの約800倍でした。胎盤哺乳類の中で幼獣と成獣の違いが最も顕著なのがパンダ。現在では母親のサイズを凌ぐまで成長し、体重も200パウンドを超えています。興味深かったのは、誕生したばかりのフア=メイは無力状態だったのに、母親としてのバイ=ユンの目を見張る献身ぶりが彼女に生命力を吹き込んだということ̶̶̶。例えば、生後5日間は何があってもフア=メイの元を離れなかった! バイ=ユンは子どもを注意深く見守り続け、漸く9日目に少量の食物を求めて出ていきました。

フア=メイの例で言うと前脚が後脚よりも発達しています。これは全てのパンダに言えると思うのですが、フア=メイは三脚を開くように先ず後脚を動かし、最後に四つ脚で起き上がります。


——フア=メイを抱いている時の感触は。

生まれたての頃の毛皮は柔らかく、まるで子犬を抱えているような感覚でしたが、今では成長して、少々強こわばった脂性に変わり、水分の浸透を防いでいるように思えます。私がフア=メイを抱いている前ページの写真は、生後数か月の時点で体重計量の際に撮影したものです。


——フア=メイが SD を離れるのを皆が悲しんでいますが、それはいつ頃ですか。その後の展開は。

サンディエゴ動物園と中国政府とのパンダ貸与契約に基づいて、フア=メイは両親の故郷である中国四川省のウォーロン・センターに送られることになります。中国は今が厳寒の季節ですから、中国行きは早くても来年の春になると思われます。フア=メイは同センターのパンダ飼育プログラムの中に置かれるでしょう。来月はシー=シーが中国に戻りますが、サンディエゴ動物園には代わりに若い雄のパンダが来ることになっています。私達関係者一同は新しいパンダの到着を心待ちにしています。今度は若くて活動的な雄のパンダなので、雌にも興味を示していますし…新世代誕生にも希望を託すことができるでしょう。私達には中国と結んだ12年間のパンダ貸与契約があと6年残っています。とはいえ、将来のパンダを取り巻く環境がどう変わるのかを予測するのは困難でしょう。
フア=メイにお別れを告げるのは悲しいですが、彼女と関わる時期を持てた幸福にとても感謝しています。パンダを見て心を癒された̶̶̶と私に言ってくれた人達もこれまでに何人いたでしょうか。仕事上のトラブルなどで意気消沈している時、動物園を訪れたり、インターネットの「パンダ・カム」を通してフア=メイの無邪気な姿に出会うだけで元気が出たという人々が後を絶ちません。3頭のパンダがその存在だけで一般市民の心を癒してきたという事実には驚くばかりです。サンディエゴ動物園でパンダ達と深い関わりを持つのは楽しく、私の大いなる喜びなのです。



ドナルド・G・リンドバーグ

1979年よりサンディエゴ動物学会会長。1993年から全米動物園水族館協会 (AZA) のジャイアントパンダ種保存計画で研究チームを主導し、動物行動学のアドバイザーとして活躍。UCバークレーで生態人類学の博士号を取得し、1985年よ り SDSU の人類学助教授として教鞭を執る。動物学に関する著書多数。パンダ、マカーク (サル) などの絶滅危機種を含む霊長類研究も多い。研究成果による各種受賞が多く、最近は種保全への多大な貢献と功績が評価されて全米動物園水族館協会会長賞を受 賞。ジャイアントパンダについての詳細情報とパンダのライブ映像 (Panda-Cam) はサンディエゴ動物園のウェブサイト www.sandiegozoo.org/special/pandas/ へ。

(2002年11月16日号に掲載)


ゆうゆうインタビュー 大渡浩平

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造園業、不動産業、シーカヤックツアー会社設立…。職業歴から活動的な人生が伝わってきますが、少年時代から行動力に溢れていた…。

兵庫県の田舎の兼業農家に3人兄弟の末っ子として生まれましてね、周りは手付かずの荒削りな自然だけというド田舎でしたから、遊びというと自然と戯れることしかなかったんです。山川草木の中を走り回っていると、とても幸せな気分になり、子供心に「これが最も自分に合っている生き方なのかな」と感じていました。自然から人間の本来あるべき姿というか、何かを学んでいたと思います。高校時代はアマチュア無線に没頭し、拙い英語で世界中の人と交信しているうちに、漠然と「海外に出たい」と思うようになっていました。特に、熱帯作物とか熱帯果樹にも興味があったので、アルゼンチン、コスタリカなどの国をぼんやりと思い浮かべていました。それは、世界の雄大な自然の中に我が身を置いてみたいという願望だったと思います。


——アメリカを選んだ理由は。

ええ。私の尊敬する造園家の先駆者に NY のセントラル・パークを造ったフレデリック・ロウ・オルムステッドがいます。彼は19世紀半ばにランドスケープ・アーキテクト (造園家) という職業を確立した人物で、「自然と共生していない産業社会に人間生活は成立しない」と近代アメリカに警鐘を鳴らしたんですね。私は「造園家は自然と人間に精通したエキスパートであれ」というオルムステッドの言葉がとても好きで、造園家は憧れの職業でした。アメリカですぐに働ける職業としても造園が最良の選択肢の一つだと思いました。アメリカは家も庭も大きい。造園への需要は絶対に高いという確信もありました。研修を終えて帰国し、大学卒業後に、皇室の別荘などからの受注も多く、伝統的な日本庭園を手掛ける造園会社で2年間働きました。この会社で世界の造園の中で一番難しいと言われる日本の造園術を十二分に習わせてもらったことは、自分の後の人生に大きなプラスとなりました。その会社を2年で辞めて結婚し、そして再渡米。3年前にお世話になった農場の人達が再会を喜んでくれて、以前に住んでいた農園付きの広い家を幸運にも$200で貸してくれることになり、アメリカ生活が始まったわけです。


—— 造園家としてのアメリカ生活は如何でしたか。様々な職業にもチャレンジされていますが…。

8 1当時は20代後半。若いから怖いもの無しだったんでしょうね。その道の事情も全く分からないのに、いきなり Penny Saver に広告を出して仕事の注文を取ろうと…。最初から誰の助けも借りず、何から何まで全部自分で行う…この理念を貫いて今日まで生きてきていますが、やがてこれが血となり肉となり、苦境に屈しない精神力が培われたと思います。

造園業も5年目を迎えて、漸くビジネスとしても軌道に乗ってきた頃、不動産業にも関心が芽生え始めていました。これには、ランドスケープと調和した最高の生活空間を皆さんにお世話したいという思いと、当時は空前の住宅ブームでビジネス性が高いという現実的側面もありました。でも、不動産の免許を取って看板を掲げたものの、予想に反して仕事が来ない。最初の2年間は年収が僅か$2,500という悲惨な状態で、食うや食わずの生活。ご飯にキャベツの醤油炒めという食生活が毎日続きました。3年目からは徐々に収入が増えて、さあこれからと思っていた矢先、'91年2月に生死をさまよう交通事故に遭って不動産の廃業を余儀なくされてしまいました。

その後、'84年に趣味で始めたハングライダーが高じて取得したヘリコプターのライセンスを生かし、飛行船のパイロットを '91年から2年程続けました。次には、これも趣味としてバハカリフォルニアをカヤックで周遊していた経験から、バハやカナダ、グリーンランドなどのカヤック冒険ツアーをカスタムメイドで行う会社を'94年に設立し、その上で自分の本業である造園業に戻りました。どちらの仕事も現在まで続いています。


——アメリカならではの自由さが趣味を実益化するのでしょうね。ビジネスの金科玉条は。

趣味を気兼ねなく追求できる開放的なアメリカの風土が心底性に合っているのでしょう。自分がアメリカという異国、異文化の中に20年近く生きてきて、違和感を一度も感じたことがないんですよ。好きなことだけに没頭できるというのは幸せな状況に違いありませんし、日本ではなかなか難しい。まあ、趣味の実益化と言うには程遠く、いつもピーピーです。(笑) 趣味には金がかかるのに、金儲けにはムキになれない男ですし、使う一方の厄介な亭主だなと我ながら思いますね。(笑) ただ、私は両親から叩き込まれた「正直」の2文字をモットーに生きていますから、造園にしても世に言う‘クッキーカッター’のような仕事は絶対にしない。手間暇かけて、その注文主の好みと自分の造園センスを十分に反映させて、双方が気に入るものを丁寧に造ります。ですから、年間の仕事量はタカが知れている。しかし、その姿勢の積み重ねが明日の信用に繋がると信じています。


—— シーカヤックツアーで記憶に残るエピソードを聞かせて下さい。

数え上げたら切りがないけれど、バハカリフォルニア沖合で突風に煽られ、仲間数人のカヤックが沈没した時にはもうダメかと思った。この時は運良く漁船に助けられて危うく一命を取り留めました。鯨に遭遇してカヤックをひっくり返されたことも̶̶̶。今となっては「鯨の背中に立つ」という世界でも稀な経験として話のネタにはなりますが…。 (笑) 自然と接する時は常に危険と隣り合わせ。それが自然の本質です。人生航路でも同じことが言えますね。何が起こるか分からない。でも、崖っ縁に立たされた時こそが好機到来だと思います。その分、冷静に状況を分析しながら、何かにチャレンジしようとする自分がそこにいるワケですから。


—— 造園業に寄せる今後の抱負は。

8 2これまで自分自身を頼みに独立独歩で進んできましたが、最近になって、一人の力では達成できる仕事に限界があると認識するようになりました。’97年に世界有数の権威あるインテリアデザイン誌 Architectural Digest で私の手掛けた造園が紹介されたり、KUSI-TV (Ch. 51/Cable 9) でインタビューを受けたり、各新聞雑誌で取り上げられるなど、造園家としての社会的信用も増してきたと思います。そこで今年9月、約 20人のスタッフを抱えて会社組織 (Water and Stone 社) にしました。勿論、この会社を軌道に乗せることが先決ですが、ある程度ビジネスが回転するようになったら、また世界に向けて冒険旅行に出かけますよ!! … そう、同じ場所に長い間じっとしていると、虫が疼いてどうしようもないんです。


大渡 浩平 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

Water and Stone 社代表。1956年1月14日兵庫県神崎郡生まれ。1981年東京農業大学卒業。1982年渡米。渡米半年後に造園業開始。以後、不動産業、ヘリコプ ター・飛行船パイロット、シーカヤック・カスタムツアー会社設立など、多岐にわたる職業を経験。2002年9月より現会社を設立、代表就任。趣味はシーカ ヤック、ハイキング、写真、植物収集、飛行など。現在、ノースカウンティーのバリーセンターで美智子夫人と愛娘ルナさん (15歳) の3人暮らし。ウェブサイトは www.koheiowatari.com


(2002年12月1日号に掲載)
 
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ゆうゆうインタビュー シスター・ヘレン・マックヒュー

9 sister helen
 

SDで英語を教えていた先生が日本に興味を抱き、深く関わるようになった理由を聞かせて下さい。

日本への興味は当初からございました。私の家族が懇意にしている友人の中に日本人がおられたのも理由になると思いますが、正直に言うなら、日本と深い関わりを持つまでに少々回り道をしています。私はサンディエゴ大学で教鞭を執ってきましたが、研究休暇を得る権利を取得したのは英語学科の主任を務めた’70年代後半になってからです。私は昔から英語教授として言語学に関心を寄せていたので、スコットランドで1セメスター (約半年間) を過ごすという計画を立てたこともありました。残念ながら、大学側はそんな短期間の計画に賛同してくれず、逆に3年プランを呈示してきたのです。「3年間は長すぎる」 とばかりに、私は英国のオックスフォード大に目標を定めて入学を果たし、憧れのトリニティ・カレッジ (ニュートンの遺品が図書館に展示され、キャンパス内には“ニュートンの庭”もある) とオール・ソウルズ・カレッジ (ヘンリー6世により1438年に創立) などで講義を受ける機会に恵まれました。その感動は喜悦と呼ぶべきものでしたね。


——素晴しい経験ですね。しかし、オックスフォードは東京から離れすぎていますね。

1年間の研究休暇のうち前半を英国で過ごし、残りの半年間は日本というのが私の希望でした。日本に寄せる思いがありながら、それまではチャンスに恵まれませんでした。私が日本に行く本来の目的は…研究休暇を決定する委員会でも表明しましたが…言語学の分野で言う 「外来語」 を研究すること̶̶̶。特に、日本語には英語そのものを日本語化してしまった言葉が幾つかあります。私は英国でリサーチを開始しましたが成果はそれほど上がらず、その作業の大部分を日本で行なうつもりでいました。
 

—— 日本での勉強を開始するにあたり、希望の場所はありましたか。

9 2ご存知のように、私は大学教授であると同時に、国際的に活動する聖心修道会に属する修道女なのです。聖心女子修道会には東京の聖心女子大学があるので、躊躇することなくそこに決めました。因みに、日本語には“sacred heart”の語に相当する概念が無いので、最も意味の近い「聖心」 という言葉を使っています。聖心女子大学の広いキャンパスは東京都渋谷区にあり、そこで私は他のシスター達と生活を共にしていました。いつの日か、私はこの大学が遠い昔に皇室の居住地の一つだったと確信するようになりました。第二次大戦後には私達の修道会がここを買い取っています。とにかく美しい場所なので、あの黒澤明監督も自分の作品の中にそこの鳥居を使用したほどでした。私が聖心に到着して間もなく、英文学部の1人のシスターがローマ赴任を要請されて日本を離れることになりました。その空いたポジションに興味があるかと尋ねられ、、私は引き継ぐ意志を表明しました。この時、日本と深く関わる基盤が私に与えられたのです。


——日本の印象は如何でしたか。オックスフォード、そしてSDと比較して趣が全く違ったのでは。

まるで魔法をかけられているような心地でした。魅力的と言う以外に表現が見当らない世界というか̶̶̶。例えば、庭園の美しさ…私にも作りたいと思わせるほどの魅力がありました。でも、そう簡単ではなさそうですね。それに日本の美術館! 最高級の豪華な展示会を催していると思います。ヨーロッパの最高級品が最終的に日本に辿り着いたような印象を受けましたね。それに、何度となく日本の友達が京都、鎌倉、広島などの地方を案内してくれました。彼らは日本に滞在中の外国人全員にそういう便宜を図ってくれていました。とにかく、行く先々で思ったのは、本当に美しさに溢れる国だということ ——


—— 「郷に入っては郷に従え」 という諺がありますが、日本の生活様式を取り入れたことは。

その点については、他の外国人が日本様式の恩恵を受けたと耳にしても、私自身は余り適合できなかったと言わざるを得ません。一例を挙げると、キャンパスに小さな礼拝堂があり、そこで日本人のシスター達と一緒に祈りを捧げるのですが、彼女らは跪ひざまずいてうずくまり、その態勢で祈りを続ける…私にはどうしてもできなかった! 無理に真似をしても、ピンや針がヒザに刺さっていたでしょう。あの態勢は慣れていないと出来ません。食生活に関して言えば、私は箸使いの妙技を習得する能力が無かったようです (笑)。… 箸を持つと指の機能がマヒしてしまうような状態に陥るのです。


—— 聖心女子大学での学生達の様子は。

9 1本当に良い子ばかりでした! 初授業の様子を今でも覚えています。私は最初のクラスでアメリカ文学を紹介しようと思いました。言わば 「西洋の事始め」 といったカラーを出そうとしたのです。日本人学生は饒舌を避けて、余り話そうとしない傾向がありますね。…特に英語に関してはそう言えるでしょう。先生から教えられるという環境には慣れていて、受容力に優れています。反面、静かにしているだけではなく、あるクラスはマーク・トウェイン (『トム・ソーヤーの冒険』、『ハックルベリ・フィンの冒険』 で有名な米国の国民的作家) を興味深く呼んでいて、激しい議論もします。でも、別のクラスは水を打ったように静かでしたね。時々、缶切りを持ち出して雑音を立てたいような衝動にも駆られました! 彼女らは勤勉で、間違いを恐れる完璧主義者なんですね。


—— SDに戻られた後は USD-聖心女子大学の夏季交換留学生プログラムの創設に尽力されましたが。

日本を離れる前、聖心の教職員の間で夏のアメリカでの短期旅行/留学プログラム開設のアイデアが出ていました。帰米してすぐに聖心女子大学のシスターの1人から電話が入り、サンディエゴ大学 (USD) との提携の可能性を打診してきたので、私は協力の意向を表明し、USDに働きかけたのです。日本から第1陣の交換留学生が到着したのはその翌年だったでしょうか。私は若い人ほど留学体験は意味を持つとの思いから、大学1年生を中心に募集しようと思いました。私の妹マリー・マックヒューも私と同様に日本への思慕が強く、夏になるとサンフランシスコからサンディエゴに飛んできて、交換留学生プログラムに貢献してくれました。その妹が聖心女子大で教えることになり、私が引退した後、妹から 「ポジションに空きがあるよ。意欲はある?」 との連絡が入り、再び教壇に立つ運びとなりました。


—— 聖心女子大の卒業生には著名な人物がいると聞いています。

皇后陛下の美智子様のことですね。美智子様は優秀な学生として聖心女子大に在籍しておられました。在学中そして卒業後も学生会の委員長として活躍され、聖心修道会の日本支部長も務められました。3~4年毎に修道会の各支部が集合する国際会議が開催されるのですが、美智子様は私達の日本代表として前回のベルギー会議にも出席されています。美智子様は修道会のご友人も多く、誰からも敬慕されている方です。皇室に入られた後も会議にお顔を出されており、ご本人も意義のあるプログラムとして積極的に動かれていました。


—— 聖心女子大の教え子というのみならず、美智子妃時代に家庭教師に任ぜられたと聞いています。興味深いその経緯を話して頂けますか。

美智子妃殿下が 「シスターの中から自分の英語教師を1人選んでほしい」 と、当時の聖心女子大の学長に申し出られたのでしょう。美智子様は英語を専攻されていて、英会話の相手となるシスターをお探しになっていました。正式な英語レッスンではなく、日常会話程度のトレーニングが目的でした。学長が白羽の矢を立てた人物がこの私でした。「ご意向は如何ですか?」との学長の問いかけに、「それは是非」と私… (微笑) 。それからというもの、美智子妃とお会いする日は、宮内庁差し回しの車が聖心のキャンパスに現れて私を乗せ、皇居へ向かうという物々しさ。皇太子宮殿までの景色が美しく、サクラが満開の季節のゴージャスさは最高の贅沢と言えるものでした。

家庭教師では時事問題や社会の大事件を素材にすることはありませんでした。美智子様は実に聡明機敏で、しかも自然体で気取りの無い方でした。特に、童話や児童文学に情熱を注いでおられましたね。個人教授でお人柄をもっと知るようになると、美智子様が興味を示される事柄が分かるようになり、私が提供する話題には質問が返ってくるようになりました。時々は地方英字新聞の記事や、文学、あるいは私が美術館で観賞してきた展覧会を題材にディスカッションを展開することもありました。皮肉なことですが、世間的な興味を引く話題が豊富に出てくる場でありながら、美智子様が私的な目的で皇居外に出られたことは、恐らく安全上の理由から稀だったように思われます。仮に、美智子様が美術鑑賞に赴かれるなら、そのミュージアムは直ちに閉門して 「貸し切り状態」 にするでしょうし、警備上の問題など懸念に及ばず…。美智子様は決して何も言われませんでしたけどね…そういうものじゃありませんか。


——その後、美智子様にお会いになる機会はありましたか。

ちょうど4、5年前のことになりますが、私の友人が修道会のシスターと私を日本の旅に誘ってくれたのです。聖心女子大を訪問することが主な目的でしたが、その時、友人が私にその気持ちがあれば、皇后陛下に謁見できる用意もあることをこっそり教えてくれたのです。言うまでもなく、私たちは皇居を訪問しました。とても短い時間でしたが、印象深く素晴らしいひとときを過ごすことができました。我々は広大な中庭に面した部屋に案内されました。深い緑を湛えた庭の木々の美しさ…、そして、皇后陛下が中庭を臨む窓の前に現われ、我々と向き合ってお座りになりました。皇后陛下が我々の方をご覧になる時、彼女は私達と壁しかご覧になれない (笑)。でも、我々がお姿を拝見するとき、皇后陛下は華麗な風景の中に収まっているようで … その高貴さはまさしく絵画のようでした。彼女は、上品で、純粋で、本当に素晴らしい女性です。美智子様に再びお会いすることができたことは、本当に思いもよらない喜びです。その場を去る前に、私達は、天皇・皇后両陛下がいつの日かサンディエゴにもお立ち寄り下さるようお誘い致しました…。


シスター・ヘレン・マックヒュー ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
世界44か国に存在する国際的なカトリック女子修道会「イエズスの聖心会」メンバー。サンフランシスコ出身。現在、同系修道会に所属する数名のシスターと SD 市内リンダビスタ地区で共同生活を続けている。サンフランシスコ女子大学で学士号、スタンフォード大学で英語学修士号と博士号を取得。サンフランシスコ女 子大学、マンハッタンビル・カレッジ、サンディエゴ大学 (USD) で英語を教える。サンディエゴ大学では英語学科主任教授を務めたほか、USD-聖心女子大学の夏季交換留学生/短期留学プログラムの創設に助力。


(2002年12月16日号に掲載)